1945年 3月28日、渡嘉敷島の集団自決 ~ それぞれの島の「沖縄戦」

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1993年3月に建立された「集団自決跡地」の碑。この碑の後方は谷間となっており、その場所で集団自決が起こった。戦後、集団自決地には米軍の施設が置かれていたが現在は返還され、国立沖縄青少年交流の家となっている。

巡る戦跡「渡嘉敷島」| 沖縄ツーリスト

 

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【シリーズ沖縄戦】76年前の今日
1945年3月28日『慶良間の集団自決』
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基地建設は
その土地の歴史すら造成する。
ベトナム戦争のさなか、米軍は沖縄の各所に次々と核ミサイル基地を建設した。
現在わかっているだけでも、ホーク8基地、ナイキ8基地、メース4基地。
そのホーク基地建設の一つとされたのが
渡嘉敷島である。
1960年3月22日、
米軍は渡嘉敷に土地の接収をいいわたす。
場所は渡嘉敷の見晴らしのよい山頂、北山 (ニシヤマ)で、まさに15年前に日本軍が住民を集めた あの集団自決の場所であり、
信じがたいことに、米軍はその山をごっそり切り開いて造成し、ホーク基地「渡嘉敷陸軍補助施設」を作った。(そして12年後に、原状回復もせずそのまま「返還」する。)
その基地建設の際、9年前に建立したばかりの初代の慰霊碑「白玉之塔」を移動させるのではなく、玉井村長はギズ山に新しい「白玉之塔」を建立することを決めた。
機があるごとにじわじわと歴史を修正していく者たちもいるということを、我々はしっかりと記憶しておきたい。
現存する「白玉之塔」では、集団自決における「赤松隊」の関与はすっかり削除され、
また1979年に建立された「戦跡碑」には、あの曾野綾子が「翌28日敵の手に掛かるよりは自らの手で自決する道を選んだ… そこにあるのは愛であった」の文章が刻まれた。
米軍基地建設によって、山の地形はあとかたもなく変わっただけではない。
書き直された「白玉の塔」や「戦跡碑」の碑文を経て、
やがて 2005年になって「軍令はなかった」と裁判まで起こし、歴史教科書を「修正」したことは、「新しい歴史教科書をつくる会」のやったこととして有名な話である。 ( 林博史沖縄戦における「集団自決」と教科書検定」)
基地建設は、その地形を根底から破壊するだけではない。
そこにある歴史の記憶すら書きかえる。
既にキャンプ・シュワブの公式ホームページは、米軍自らが敷設した民間人収所「大浦崎収容所」の記述が消されている。
その上、今、大浦崎収容所の跡地や海まで、激戦地南部の土で埋めようとしている。
基地建設は、
その土地の歴史まで埋め立てている。

 

 

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【シリーズ沖縄戦】74年前の今日

1945年 3月28日『慶良間の住民が集団自決』

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140年前の昨日、日本政府は、まつろわぬ琉球王国に処分官と武装兵560人送り込み、500年の歴史を持つ琉球王国を実質的に潰した。

 

okinawa1945.hatenablog.com

 

それに先立ち、大久保利通らと交渉した琉球王国使節団は、日本政府の理不尽すぎる要請に直面していた。

 

その中の1つは、日本軍を琉球に駐屯させろ、というもの。すでに140年前から沖縄は同じ事を日本政府から押しつけられていることになる。

 

日本政府の言い分はこうだ。琉球国民を守るため、「日本軍隊の沖縄駐留」を承認せよ。

 

つまり、日本政府の琉球併合の最大の動機は、まさに「琉球に日本の守備軍を駐留させること」(George H.Kerr)だったといってもいい。

 

しかし、それに対して琉球使節団池城安規は、激しく拒絶した。

 

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「琉球は、遠方の一貧乏国に過ぎないため、これを守るのに軍備は必要とせず、逆に軍備することにより、列強諸国の注目を浴び、外国諸勢力の武力行使を招引する危険性が高まる」

1879年 3月27日 『琉球処分』

 

池城の危惧は、

それから66年後、

現実の悪夢となって島を襲う。

 

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慶良間の沖縄戦

 

語ることのできない、

恐ろしい苦しみがあった。

生き残った者たちの、家族すら切り裂く深い苦しみ。

 

www5a.biglobe.ne.jp

 

ただ、ここでひとつ留意しておきたいのは、慶良間列島で一様に「集団自決」(強制集団死) があったわけではないということだ。

 

詳しくは、またの機会にゆずるとして、

 

前島のばあい

例えば、渡嘉敷島の東側にある小さな島「前島」では、餓死者一人を除き犠牲者はいなかった。まさに、池城親方が語った琉球王国の英知「基地をもたぬ」という平和の思想が、この小さな島を救った。

 

虐殺の島、集団自決、玉砕の島と呼ばれ、すさまじい戦争体験を持つ渡嘉敷島。この渡嘉敷の島々のなかでたった一ヶ所「前島」だけは、奇跡的にも砲弾を浴びることなく終戦を迎えた。周辺の島には、間断なく、陸海空から攻撃が加えられたのに、なぜ、前島だけ真空地帯のまま残されたのか。これには、住民を守るためには、兵隊を島に上陸させてはならぬと、日本軍の駐とんを拒否した分校長と、この訴えを「わかった」と決断した隊長との間の隠された戦争秘話が残されていた。

琉球新報[マイクロフィルム複製本] 1981年6月』([沖縄県立図書館])
p311(S56.6.19)「戦禍免れた渡嘉敷村前島 救世主は分校長と隊長だった」

 

久米島の場合

また久米島では、日本軍三十人ほどが陣地を構えていたものの、この「通信隊長が非常に横暴だった」ため、住民は日本兵に強く反発し、むしろ米軍よりも日本兵の虐殺から逃げ惑わなければならなかった。

 

渡嘉敷島座間味島慶留間島の場合

なぜ強制集団死の悲劇がこの3つの島に集中したのか。ここで端的に語ることは難しい。

 

日本軍が島にしっかりとした足場を築き、皇民化教育が徹底されていた。また軍事施設などの機密が島民から米軍に漏れることを防ぐため、徹底して捕虜になるなと「軍官民共生共死の一体化」が徹底されていた。また日本兵は手榴弾を住民にあらかじめ配っていた、そんな場合、

参照 沖縄戦における「集団自決」と教科書検定 - 林博史

 

そうした島では、島民は物理的にも精神的にも生きるための逃げ道を断たれた。

 

こうした歴史を否定しようにも、否定しようがない事実がここにある。

 

ご覧ください ⇩

1945年 3月28日『慶良間の住民が集団自決』

neverforget1945.hatenablog.com

 

https://www.jstage.jst.go.jp/article/gendaishikenkyu/53/0/53_65/_pdf