《AIによるカラー処理》発煙手榴弾により壕から燻し出され、海兵隊に投降する日本兵。(1945年6月21日撮影)
Jap soldier flushed from a cave by a smoke grenade surrenders to Marines.
□ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □
【シリーズ沖縄戦】74年前の今日
1945年6月21日 『米軍の「沖縄作戦」終わる』
□ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □
74年前の今日、
米軍は沖縄の確保を宣言し、
沖縄作戦の「終了」を内外に告知した。
※ 米軍は今日6月21日に真栄平・摩文仁の高地を占領。6月23日ではなく、21日が「日本軍の組織的抵抗が終了」した日と記す。第32軍司令官牛島満中将と参謀長の長勇中将の最期に関しては諸説あり、また、両将軍の「自決日」に関しては、米軍側が22日未明とし、日本軍側は23日未明となっているため、当ブログでは、両日に双方の記録、証言等を掲載している。
米軍にとっては、
敵の陣地を占領し制圧した時点で『終了』なのかもしれない。
だが日本軍にとっては
まだ『沖縄戦が終わった』わけではなかった。
この時、摩文仁では、
第32軍の参謀たちはバックナー司令官戦死の知らせに喜び
送別の宴をひらいて
自決の準備を進めていた。
彼らにとって沖縄戦は『負け』ではなかった。
米軍を沖縄の島に囲い込み
本土決戦を一日でも長く先延ばしにするため、
沖縄の地を血で染め、
県民の四分の一のいのちを奪いながらも、
敵の物資と兵器を消耗させたのだから、沖縄防備軍の「両将軍はもちろん洞窟内将兵ことごとく満足」だったのだ。
一昨日、
日本政府は
米嘉手納基地のPFOS汚染を知りつつ
沖縄県に対して情報を出さなかったことを認めた。
米軍のためなら躊躇なく沖縄県民の生活を差しだす日本の政治家や官僚のすがたをご覧ください - 米軍嘉手納基地 PFOS 問題 - Osprey Fuan Club
沖縄戦から74年の月日が過ぎても
黒いスーツを着た参謀たちは、
米軍を沖縄に「引き留める」ため
いまだに一片の良心の呵責もなく県民の生命を米軍に差し出す。
やっていることは昔も今も変わらない。
沖縄防備軍とは、まさに沖縄を防備するのではなく、沖縄で本土を防備することだった。