ウチナーンチュ

1945年5月2日

 

75年前の今日
一人の沖縄出身の退役軍人が総司令官サイモン・B・バックナー陸軍中将と直接会った。

両親が北中城村出身で自らも幼年期を沖縄で過ごした比嘉太郎一等兵は、

日本が真珠湾攻撃で始めた戦争で、怒涛のような差別のただ中で結成された日系人部隊第100歩兵大隊の一人だった。

イタリアの激戦で負傷しつつ戦い、二つの勲章を得て退役し、各地の日系人収容所を訪れ講演活動をしていたが、

故郷が戦場になると知るや、
ふたたび志願して沖縄に向かった。

欧州戦線で目撃した民間人の悲惨な状態を思い出し、矢も盾もたまらず沖縄へ飛んで、一人でも多くの住民を戦災から救出しようと決意した。

4月25日、嘉手納に降り立った比嘉は、祖国の変わり果てた現状に大きく打ちのめされた。

名誉ある退役軍人のひとりとしてバックナー中将に直接申し入れることにしたのだった。

『ハワイ在住の沖縄出身者たちは戦禍にあえぐ沖縄住民のために、救援する用意があるので力添えしてほしい』と、バックナー中将に要望した。

また、みずから前線にたち、危険をも顧みないで壕のなかの人たちの救出にあたった。

「私もウチナーンチューです。どうか信じてここを一緒に出て下さい」と沖縄語で呼びかけた。

「ワンネー、ヤマグスクヌタルーヤイビーン。ンジティクミソーリヨー」

沖縄語でなければ、その言葉は決して故郷の人々の心には届かなかっただろう。

日本軍は沖縄に多くの基地をつくり、しまいに沖縄語を使えば「処分する」とまで禁止令をだしたが、

実際には
沖縄の言葉がウチナーの思いをつなぎ、
沖縄の言葉が多くのウチナーの命を救った。

ウチナーンチュ、ウシェーティナイビランドー!

 

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5月2日、
一人の沖縄出身の米兵が米上陸部隊総司令官サイモン・B・バックナー陸軍中将(第10軍)と直接会った。

両親が中城村(現・北中城村)字島袋出身で自らも幼年期を沖縄で過ごした比嘉太郎一等兵は、

『ハワイ在住の沖縄出身者たちは戦禍にあえぐ沖縄住民のために、救援する用意があるので力添えしてほしい』と、バックナー中将に要望した。

故郷が戦場になったと知った比嘉一等兵は、『欧州戦線で目撃した民間人の悲惨な状態を思い出し、

矢も盾もたまらず沖縄へ飛んで一人でも多くの住民を戦災から救出しようと決意。

ハワイ各島を回って「郷土沖縄を救おう」と呼びかけ、沖縄戦災民救済運動を起こした。

4月25日、嘉手納に降り立った比嘉は、祖国の変わり果てた現状に大きなショックを受け、バックナー中将に直接申し入れることにしたのだった。

また、みずから前線にたち、危険をも顧みないで壕のなかの人たちの救出にあたった。

「私もウチナーンチューです。どうか信じてここを一緒に出て下さい」と沖縄語で呼びかけた。

「ワンネー、ヤマグスクヌタルーヤイビーン。ンジティクミソーリヨー」

沖縄語でなければ、その言葉は決して故郷の人々の心には届かなかっただろう。

日本軍は、沖縄語を使えば「処分する」と禁止令をだしたが、

実際には
沖縄語がウチナーの思いをつなぎ、
沖縄語が多くのウチナーの命を救った。

 

 

 

== オスプレイ不安クラブ・ 沖縄戦シリーズ ==

▪️73年前のきょう: 1945年5月2日▪️

5月2日、米上陸部隊総司令官サイモン・B・バックナー陸軍中将(第10軍)に会った沖縄出身2世の米兵がいた。

両親が中城村(現・北中城村)字島袋出身の比嘉太郎一等兵は、

『ハワイ在住の沖縄出身者たちは戦禍にあえぐ沖縄住民のために、

救援する用意があるので力添えしてほしい』と、バックナー中将に要望した。

沖縄が戦場になったと知った比嘉一等兵は、

『欧州戦線で目撃した民間人の悲惨な状態を思い出し、

矢も盾もたまらず沖縄へ飛んで一人でも多くの住民を戦災から救出しようと決意したのである。

その前、彼はハワイ各島を回って「郷土沖縄を救おう」と呼びかけ、

沖縄戦災民救済運動を起こすとともに沖縄でハワイ在住県出身者たちの援助物資の受け入れに当たる』ことになっていたのだが、

戦場をさまよう沖縄住民の悲惨さは、欧州、北アフリカ、南太平洋戦線で目撃した非戦闘員の状況にくらべ苛酷であったことにショックを受け、バックナー中将に直接申し入れることにしたのだった。

『かたわら、彼は、米軍が洞穴に敗残兵や住民がいることを探知し、そこを爆破しようとすると、自らの危険をも顧みないで現場に出向き洞穴内の人たちの救出にあたった。

…「沖縄人は私を殺すことはしないから、騒いでもけっして発砲しないでくれ」と頼みこむと、壕内に向けて

「私もウチナーンチュー(沖縄人)です。どうか信じてここを一緒に出て下さい」と方言で呼びかけた。』

比嘉一等兵は、自決をはかる人びとを説得し、数多くの住民を救出した。

また、ハワイ沖縄県人会、在ハワイ県出身者たちとの努力で送られた物資により助かった住民の数は、『5万名を下らないという。』(110-111頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 110-111頁より》

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73年前のきのう: 1945年5月1日
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■ 72年前のきょう 1945年5月2日 「私もウチナーンチューです」■... - Osprey Fuan Club | Facebook

世界各地には、沖縄県出身者やその子、孫、ひ孫たちがいる。

昨年10月には、彼らが故郷を訪れて、繋がりを広げ、絆を深めるための『世界ウチナーンチュ大会』が開催された。

大会に参加したウチナーンチュは皆、自身のルーツを誇りにし、世界各地で頑張っている。

多民族や移民で形成された国々に暮らす彼らは、

沖縄、ウチナー、琉球、という島国の『アイデンティティ』や『ルーツ』への想い、意識が非常に強い。

しかし、そのような彼らとは対照的に、

ここ沖縄では、何もかもが「日本式」に置き換えられている。

自主的な、または、忖度しながらの過剰な「日本への同化」が目立つ。

72年前もそうだった。多くのウチナーンチュが大日本帝国に同化した。

そのために、日本国の戦争に巻き込まれた。

同化した先の日本は沖縄を捨て石にしたが、

沖縄にルーツを持ち、米軍にいたウチナーンチュたちや、ハワイにいた沖縄出身の人たちが、沖縄を見捨てることはなかった。

彼らは沖縄に食糧や物資を送り、県民の命を繋いでくれた。

ウチナーグチで投降を呼びかけ、我々の父母、祖父母を助けてくれた。

今、我々がここ沖縄で生きているのも、命を繋いでくれた彼らのおかげだ。

世界各地にいるウチナーンチュの「魂の祖国」は、ここ沖縄。

そんな彼らが誇る「沖縄」を、彼らの「アイデンティティ」を、「ルーツ」を、

現在、沖縄に住む我々が否定してはいけない。

沖縄を否定する行為は、彼らの存在を否定するも同じ。

世界のどこに住もうとも、ウチナーンチュはウチナーンチュ。

それ以上でも、それ以下でも、それ以外でもない。

「ワンネー、ウチナーンチューヤイビーン (私は沖縄人です)」