大田昌秀の原点 / 自民党の沖縄選挙戦略と官房機密費3億円 / 若者たちへのメッセージ
大田昌秀の後ろ姿。
大田昌秀 (1925年6月12日 - 2017年6月12日)
6月12日。
今日は、元沖縄県知事・大田昌秀さんの誕生日であり、また命日でもある。
歴史学者、沖縄戦研究者としても、また沖縄県知事としても、彼の原点にあったのは、つねに平和への意思、沖縄戦の記憶だった。
沖縄が生んだ偉大な歴史学者の軌跡をたどる。
1945年 - 鉄血勤皇隊として
1945年、沖縄師範学校本科ニ年の時、鉄血勤皇隊として沖縄戦に動員される。
鉄血勤皇隊は13~19の歳で法的根拠無く動員された。沖縄師範学校男子部では引率の教師24人に導かれ生徒386人が戦場に動員された。そのうち生徒226人、引率教師9人、実に6割の学徒が戦死した。
沖縄師範鉄血勤皇隊「千早隊」とは
沖縄師範学校で情報宣伝隊「千早隊」に配属された学徒たちは、弾雨のなか、司令の伝達、また米軍が飛行機でばら撒く各種のビラと新聞に対抗し、沖縄新報などを壕の各所に配達した。
新聞社壕と同じ「留魂壕」を拠点にしていた沖縄師範学校の生徒で、「鉄血勤皇隊」のなかの「千早隊」隊員(通信や伝令を担った)だった池原秀光さん。住民の潜む壕に新聞を持って行き、読み上げて解説をしていたという。… 池原さんをはじめ「沖縄新報」を配るなどした鉄血勤皇隊の中の千早隊は、22人のうち9人が戦死している。
そのため大田は第32軍司令部壕に出入りすることも多かった。住民を盾となして戦争を引き延ばした参謀らが、最期には民間人に変装し脱出、その姿に衝撃を受ける。
参謀たちの透きとおるばかりの白い手や毛脛が、民間人の着物から不恰好にはみ出し、日頃の威風堂々たる風彩とはまるでそぐわない。参謀たちの日常を知る者には、その変装は余りにも哀れであった。
かつては「無敵皇軍」の参謀として羽ぶりがよかった参謀たちの、この最後の姿ほど私を惑乱させ、深刻な衝撃を与えたものはなかった。
6月18日、第32軍最後の命令は、鉄血勤皇隊をひきいた遊撃戦を展開せよ、というものであった。摩文仁に潜伏した大田昌秀らは7月下旬、国頭突破のため北上する。潜伏しながら9月末、あるいは10月ごろまで潜伏した。
1990年-1998年 沖縄県知事
1990年、歴史学者から政治の「現場」へ。沖縄県知事に (1990年12月10日 - 1998年12月9日)
1995年、米軍用地の強制使用手続き代理署名を拒否
1995年、米軍人3人による12歳少女の監禁暴行事件、日米地位協定により実行犯3名の身柄引き渡しは拒絶され、県民の怒りは頂点に達する。地主が契約を拒んだ米軍用地に関して、大田知事は「米軍用地の強制使用手続きに関する代理署名」を拒否し、沖縄代理署名訴訟に発展する。
代理署名を拒否した理由は、ひとつには2度と沖縄を戦場化してはいけないと。
基地を持っているという事はターゲットになるということ。
1995年、「沖縄県公文書館」の創設
また、職員をアメリカに往復させ、アメリカの沖縄戦関連の公文書を収集する「沖縄県公文書館」を設立。
同館は12の書庫を備え、琉球王国時代の古文書や米国収集資料、琉球政府文書、県の文書など約35万点を所蔵する。設置当初から、「全国屈指」の呼び声が高かった。開館は、公文書管理法の施行より16年早い1995年8月1日。当時の大田昌秀知事肝いりの文化施策だ。社会学者だった大田氏は、米国公文書館で文書や写真を発掘し、沖縄戦や米国の沖縄統治を研究した。
公文書記録は民主主義の基盤。全国に先駆け、アーキビストの養成に取り組んだ。
思いもかけず県行政の責任者になったときに真先に県立公文書館を設立すると共にアーキビストの養成に取り組み、2人の女性をイギリスとアメリカの大学の博士課程にそれぞれ送り込みました。・・・ とくにアメリカで図書館学の修士号を取得した仲本和彦君を県の専門のアーキビストに採用し、9か年間、米国の国立公文書館に張り付けて史資料をマイクロフィルム、写真、映像、デジタル媒体等を用いて収集させました。そのうち最大のコレクションは、米国統治時代に琉球政府の上位機関であった琉球列島米国民政府(USCAR)の文書約350万ページで、国立国会図書館と共同で収集し、1998年度(平成10年度)から各部局ごとに順次公開しています。
1995年、「平和の礎」の建設
戦前、戦中、戦後の沖縄を伝える平和学習の場として「県平和祈念資料館」の建て替えにも尽力。そして、1995年、「平和の礎」を建設。
沖縄の歴史と風土の中で培われた「平和のこころ」を広く内外にのべ伝え、世界の恒久平和を願い、国籍や軍人、民間人の区別なく、沖縄戦などで亡くなられたすべての人々の氏名を刻んだ記念碑「平和の礎」を、太平洋戦争・沖縄戦終結50周年を記念して1995年6月23日に建設する。
1998年 - 3億円「官房機密費」と沖縄知事選
1998年2月、政府が普天間基地の返還の条件として沖縄県内で移設という「県内移設」を主張したことに大田政権は激しく対立。対抗措置として自民党は沖縄との経済振興策を話し合う「沖縄政策協議会」を一方的にボイコットしたまま選挙となる。
この時期にパターンが形成されたと思われる自民党の沖縄選挙戦略は、今も典型的に使われている古典的な手法であることに気づかされる。
つまり、自民党は選挙になると基地問題という核心には腫れ物のように触れないまま、沖縄の脆弱な経済と貧困は、米軍基地負担や日本政府のネグレクトではなく、県政によってもたらされた「県政不況」だと主張する。また、公明党は平和を唱えながらも、基地建設擁護、県内移設の自民党を協力支援する。
また、本土の大手の広告代理店が全力でのりこむ。
よほどの知恵者が蔭に居るにちがいない。その知恵も、広告代理店の手法が臭う内容だ。と、思っていたら、本当に勝者の背後には大手の代理店が動いていたのだという。
筑紫哲也「自我作古 (170) 沖縄知事選――広告宣伝技術の勝利」『週刊金曜日』第244号 (1998.11.20) Archive
不景気なのは、圧倒的な基地負担のせいではなく、基地に反対する政治家のせいだとすりかえ。そして、沖縄を意図的に政治の中心から周縁化しておきながら、擁立候補には「政府との太いパイプ」を釣りコピーにして売り出す。
さらに政府が沖縄県への予算支出を締め上げることで「県政不況」を演出し、「9・6%」という失業率を表したポスターを街中に張りめぐらすという大手広告代理店を活用したイメージ選挙を行い、「政府との太いパイプ」を売り物にした経済界出身の稲嶺氏を当選させた。
さて、その資金源は !?
三億円の官房機密費が選挙資金に
鈴木元官房副長官によれば、この時、3億円の機密費が選挙戦資金として稲嶺陣営に送られたという。沖縄の選挙に不透明なカネと広告代理店で介入する日本政府のやり方はここに原点がある。
後に明らかになったことは、2期目の選挙で、大田おろしの選挙戦で実に三億円という巨額の官房機密費が使われたということだった。それを鈴木宗男議員が証言した。
官房機密費を使って選挙に介入し、日本の民主主義を壊す。いつまでこの国はこんな不正と腐敗の政治を許しているのだろうか。
道端にはためく大量の「のぼり」や「張り紙」のメッセージの擦り込みだけではない。まだフェイクニュースなどという言葉もない時代だが、この時期、出所不明のさまざまな中傷やデマ、印象操作や怪文書などが紙吹雪のように流された。紙吹雪のようにばらまかれる大量の出所不明な陰謀論。大田昌秀を政治の部隊から引きずり下ろすために、どれほどの宣伝戦略がひかれ、ミスリーディングな情報、意図的な誤情報が流されたのか、忘却されないうちに沖縄メディアは一度しっかりと検証し、記録しておくべきだろう。
2001年-2007年 参議院議員
参議院議員 2001年7月30日 - 2007年7月29日。
ずっと死者たちを弔うことに人生をかけてきた
ずっと死者たちを弔うことに 人生をかけてきた
2017年の今日、6月12日、92歳で死去された元沖縄県知事・大田昌秀さん。少年兵、鉄血勤皇隊として経験した、あの沖縄戦、摩文仁の丘の激戦。125人のうち生き残ったのはわずか37人。「なぜこういう事態に陥ったのか。もし生き延びることができたら、明らかにしたい」。戦後は研究者として沖縄戦と戦後史を研究。平成2年には沖縄県知事となり、米軍基地の整理・縮小に取り組んだ。「二度と沖縄を戦場にしてはならない」。政界引退後も平和活動に取り組み続けた元沖縄県知事・大田昌秀さんの生涯を振り返る。
大田昌秀の後ろ姿を忘れないで、
歩み続けたい。
明日を生きる若者たちへ
日本国憲法は、明確に戦争をしないことを規定しているにもかかわらず、現政権は、戦争をする方向に憲法を改悪すべく企んでいる。もしその企図が実現すると、真先に戦場に駆り出されるのは、まさに君たち若者に他ならない。
歴史を学ぶときに、必要なこと
繰り返して言うと、君たち若者こそが未来の日本を創り出す当事者である。政治はいやだ、とそっぽを向いても、政治は疑いようもなく君たちの人生そのものをからみ取ってしまうにちがいない。そのことを念頭に入れて、誰しもが人間らしい心豊かで明るい、楽しい生活ができる国作りに邁進してくれることを切に期待して止まない。
そのためには、他人の痛みを自分の痛みとして甘受できる、優しい感性が不可欠だ。
沖縄の方言に『チュニクルサッテン、ニンダリーシガ、チュクルチェ、ニンダラン』という言葉があります。つまり、他人に痛めつけられても眠ることはできるけれど、他人を痛めつけては眠ることはできないということです。
「大田昌秀」元沖縄県知事 ➁ わかものたちへのメッセージ ~ 他人の痛みを自分の痛みとかんじるこころの大切さ - Battle of Okinawa
92回目の誕生日であった。
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