1945年 3月27日、豪雨。米軍が慶良間列島を次々と制圧 ~ 軍隊は「なんでも屋」なんかじゃない件について。

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3月27日、島の西岸より米軍が上陸し進軍、東岸の渡嘉敷村民は大混乱に陥り山中を逃げ惑う。翌28日北山盆地に集合した住民は集団自決。「第一玉石場」と呼ばれる、谷へ向かう斜面一帯の盆地で329人の命が失われる。辺りには阿鼻叫喚の叫びが長く轟き、谷川は赤黒く染まっていたと言う。

巡る戦跡「渡嘉敷島」| 沖縄ツーリスト

 

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【シリーズ沖縄戦】74年前の今日

1945年 3月27日『米軍、慶良間列島を次々と制圧』

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豪雨だった。

 

今日、米軍は慶良間で一番大きな島、渡嘉敷島に上陸した。沖縄本島は、もう目と鼻の先。

 

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米軍慶良間上陸あす26日で70年 座間味で慰霊祭 | 沖縄タイムス

 

 

昨日、米軍が慶良間列島に上陸してきた。そこにいた日本軍の部隊は、慶良間の住民を守るために配置されていたのではない。彼らの任務は、1人乗りの特攻ボートを使い、沖縄本島に上陸する米軍を背後から襲うというものだった。

 

だから、そういう訓練しかやってなかったし、地上戦に必要な武器など、ほとんど持っていなかった。

 

軍隊は、「なんでも屋」じゃない。各部隊には、それぞれ決められた機能と任務があるし、それを遂行するために努力する。

 

与えられた任務以外のこと、日頃から訓練していること以外を「やれ」と言われても、できるかどうか。もちろん、どうにか対応しようとはするだろう。

 

しかし、対応できる知識や知恵がなかったら?
対応に必要な物資や装備品がなかったら?

 

専門外のことに対応しようとするあまり、決定が二転三転してしまい、その結果、対応を誤ったら?

 

慶良間列島に配置されていた日本軍の部隊は、地上戦の訓練など、ほとんど受けていなかった。任務はボートに乗っての特攻だったから。あれこれできる「なんでも屋」ではなく、1つのことを極めようとした「専門店」のようなもの。

 

なのに、重装備で上陸してきた米軍を相手に、専門外の上陸戦を軍刀や短銃でやろうとした。離島にいるから、誰も助けに来ない。どうにか自分たちで対応しないといけなかった。行き当たりバッタリの対応。

 

住民に対してもそうだ。任務は「敵から住民を守ること」ではないから、住民をどうするかなど、考えてもいない。重装備で向かってくる米軍の対応で手一杯だ。

 

しかも、ボートを使った特攻作戦は「極秘」扱いだったから、米軍にボートが見つかっては困る。それにも対応しないといけなかった。たった数百人で。

 

残された海上挺進隊は自らの手で特攻艇を破壊し、山にあがった。

 

https://www.ranrantour.jp/lp/senseki/tokashiki.html

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マルレと呼ばれる小型特攻艇の秘匿格納壕。慶良間列島に配備された海上挺進隊の任務は特攻艇として、爆薬を搭載した小型ボートに乗り込み、米艦隊に体当たりして損害を与えることだった。しかし米軍の砲撃や空爆の熾烈さ、圧倒的な戦力差に出撃することができず、特攻艇を企図秘匿のため自沈させる。海上挺進隊は予期していなかった地上での持久戦に追い込まれることになる。この間に住民の集団自決も起こった。

 

住民は「いざとなれば日本軍がどうにかしてくれる」と思っていたけど、そうじゃなかった。

 

当時は『皇軍』である日本軍からの『命令』は、『絶対服従』の時代。軍の決定に従うのが当たり前の時代。たとえ、日本軍の戦隊長が二十代の若者だったとしても。

 

 

さて、そこで現在の状況を考えてみよう。

 

日本政府は、『南西諸島防衛で空白地帯をつくらない』とかなんとか言いながら、『離島で大災害が発生したら、自衛隊がいると安心』と考える一部の住民の心をつかみ、先島の自治体に自衛隊を売り込む。

 

数日前から何度も同じことを言うが、先島に配置されるという自衛隊は、一体何をするための部隊なのだろうか。

  

先島に配置されるとする自衛隊の部隊は、一体、何ができて、何ができない部隊なのか。住民は、部隊が配置される前に、きちんと政府に質問し、答えてもらう必要がある。

 

住民を助ける「なんでも屋」がやってくるわけじゃない。

そして軍は軍の論理で動く。

 

そこに住民の生命や暮らしの安全保障などは介在しない。

 

陸上自衛隊とミサイル基地は、住民を守るためにあるのではない。島そのものがミサイル台になるということだ。

 

住民抜きのシミュレーション。「残存兵30%まで戦闘」するなら、防衛省は、海に囲まれた島の住民の生存率を、どれくらいだと見積もっているのか。戦闘シミュレーションに住民の避難措置は含まれているのか。

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uyouyomuseum.hatenadiary.jp

 

 

当時の日本軍は、1944年11月、「軍官民共生共死の一体化」をうたい、島を共に守るためとして、日本軍の基地の建設や運搬、そして戦闘にも住民を文字通り「総動員」した。

 

足元を照らす灯もなく、その「軍官民共生共死」ということの「意味」が、今、まさに巨大な死の影となり、島を襲った。

 

ご覧ください ⇩

1945年 3月27日『米軍、慶良間列島を次々と制圧』

neverforget1945.hatenablog.com

 

http://www.okinawa-senshi.com/tokashiki.htm