住民不在の島となった伊江島に、今日、日本軍の使節団が降り立った。米兵たちはこぞってその象徴的な瞬間を見ようとやってきた。
American forces gather around the two Jap Bettys that brought Jap envoys from Japan to Ie Shima in Ryukyus. Here a C-54 was ready to carry them to Manila, Philippine Islands to discuss surrender terms at Gen. Douglas MacArthur's headquarters.
日本側の使節団を乗せて伊江島にやってきた、2機の日本軍一式陸上攻撃機の周囲に集まる米軍兵。C-54機が、日本側使節団の搭乗を受け入れる準備を済ました状態で待機しており、マッカーサー元帥の司令部で降伏条項に関する協議をするためにフィリピンのマニラに向かう予定。
撮影地: 伊江島 (1945年 8月 19日)
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【シリーズ沖縄戦】75年前の今日
1945年8月19日 『伊江島に降り立った日本降伏使節団』
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75年前の今日、
住民不在の米軍の島となった伊江島に、日本の降伏使節団が降りたった。
日本軍が東洋一と呼んだ伊江の飛行場建設は、
島と島の住民を守っただろうか。
伊江島の戦いで住民の約半数の命が奪われ、
伊江島の戦闘(4月16日~4月21日)
米軍は今に続く伊江島補助飛行場の建設に足手まといとなる住民を、すなわち生き残った住民を、
もっとも劣悪な環境におかれた
久志・辺野古の収容所、あるいは、
これまた敗残の日本兵が
島を狂気と暴力で支配する渡嘉敷や慶留間に送りこんだ。
7月2日には投降交渉で赤松隊に送り込まれた伊江の捕虜6人が赤松隊に虐殺されてもいる。
そして・・・
75年前の今日、
住民不在の家に「旧日本軍」がやってくる。
そしてまた渡嘉敷でも投降交渉が始まる。
終戦という時代がやってきても、
基地にされた島の住民にとっては
戦争は終わらない。
伊江の住民はまるで
米軍と日本軍のあいだに敷かれたバッファのように使われ続けた。
住民が生まれ島に戻ることを許されるのは、
それから2年後の1947年のことであり、
巨大な米軍基地と化した島で
またそこでも当分、軍のコンセットで暮らすことを余儀なくされた。
島を軍の飛行場やミサイル基地にするということが、
いったい住民にとって何を意味するのか
今日の伊江島と渡嘉敷と、
そして住民の証言を読み比べてほしい。
島に基地を作る者たちは、
はなから島の住民を守ることなど想定してはいない。
1945年8月19日 『伊江島に降り立った日本降伏使節団』
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