1879年3月27日 『琉球処分』 ~ 日本政府の「処分」という眼差し ~ 警察官160名、陸軍400名したがえて「琉球処分官」松田道之が首里城にやってきた

 

f:id:neverforget1945:20190327073608p:plain

首里城正殿に立つ熊本鎮台分遣隊の歩哨 : 那覇市歴史博物館

 

1879年のきょう、3月27日

 

日本政府から派遣された内務大書記官松田道之は、警官160名、熊本鎮台分遣隊400人 (日本陸軍の部隊) の武装兵力をしたがえて首里城にやってきた。

 

※ 熊本鎮台(くまもとちんだい)(1873-1888年) とは、九州の日本陸軍部隊。1874年の台湾出兵佐賀の乱を鎮圧。1877年の西南戦争を戦った。

 

松田道之琉球処分官」は、「31日正午までに城を立ち退き、熊本鎮台分遣隊に明け渡せ。藩主は東京に居住せよ」廃藩置県の通達を読み上げ、一方的に首里城明け渡しを命じた。

 

日本政府は、こうして武力により強制的に琉球を併合し、500年の歴史をもつ琉球王国を取り壊した。

 

1879年3月27日 「沖縄県」の設置

沖縄県公文書館

 松田は、琉球藩王尚泰が、日本政府のたびたびの命令に従わないので、琉球藩を廃止し、沖縄県を設置するという命令書を読み上げ、「廃藩置県」を通達しました。さらに尚泰の東京居住、琉球の土地人民と書類の引渡し、首里城明渡しなどを命じました。同年4月4日には「琉球藩ヲ廃シ沖縄縣ヲ置ク」(1879年4月4日 布告第14号)琉球藩の廃止と沖縄県設置を全国に布告しました。

 

15世紀初めに統一国家として成立してから450年余(察度王統からだと500年余)にわたって続いた琉球王国は終焉し、代わって沖縄県が設置されました。 日本政府は1872年(明治5)に琉球国を廃して琉球藩としており、この琉球藩設置から沖縄県設置までの一連の措置は、政府の公文書にちなんで「琉球処分」と呼ばれます。

 

鎮台 (基地) をおけば外国から武力で強要される

 

これに先立って・・・

 

なんとか状況を好転させようと奔走したのが池城安規。1875年、池城安規が使節団の代表として東京へ赴いた。

 

f:id:neverforget1945:20190327050216p:plain


これに先立って、琉球王国側は明治政府と折衝していました。写真中央の人物は池城安規(いけぐすく・あんき)で、琉球王府の重職である三司官(さんしかん)をつとめました。二度上京し、王府存続のために尽力しましたが、1877(明治10)年東京で客死しました。

1879年3月27日 「沖縄県」の設置 – 沖縄県公文書館

 

明治政府大久保利通内務卿の要求は、

 

1. 琉球人を守るため台湾出兵してやったから国王尚泰は上京しろ
2. 日本軍の鎮台分営 (駐屯地) を沖縄に設置しろ
3. 清国との外交関係を一掃しろ

 

などというもので、これにたいして池城は激しく抵抗し、こう語ったといわれる。

 

琉球は軍備によらず、礼儀と話し合いで外国に対応し、平和を維持してきた。鎮台 (基地) をおけば外国から武力で強要される

 

琉球は、遠方の一貧乏国に過ぎないため、これを守るのに軍備は必要とせず、逆に軍備することにより、列強諸国の注目を浴び、外国諸勢力の武力行使を招引する危険性が高まる。 *1

 

皮肉なことに、池城の危惧は、それからちょうど66年後に現実の悪夢となって訪れる。

 

 

日本軍が沖縄に建設したおびただしい軍施設は、島を守るのではなく、島を「標的」にさせ、そして「捨て石」にさせた。

 

池城は必死の交渉を続けたが、失意のなか、1877年4月30日、東京の琉球藩邸で亡くなった。

 

1879年3月27日 『琉球処分

そうして、

ついに「その時」がやってきた。

 

1879年 3月27日、大勢の警察官と軍隊とをともなって首里城琉球藩処分官がやってきたのだ。

 

f:id:neverforget1945:20190327041144p:plain 

 松田道之(前列中央)をはじめ琉球出張の随行者9名が写っています。1879年(明治12)の琉球処分後に東京で撮影したとされています。

1879年3月27日 「沖縄県」の設置 – 沖縄県公文書館

 

琉球新報 2015年1月23日

道標求めて 琉米条約160年主権を問う

f:id:neverforget1945:20190327041906p:plain

 

結局、大久保利通の要求にあるように、琉球処分」とは、

日本軍の基地を置け

という基地問題でもあった。

 

熊本鎮台沖縄分遣隊の営所となった首里城正殿 (明治12年20年代)

那覇市歴史博物館

 

f:id:neverforget1945:20190327043439p:plain

日本陸軍熊本鎮台分遣隊の駐屯地跡

那覇市字古波蔵393 ちびっこ公園 

 明治維新を成し遂げた新政府は、領土確定を図るため、日清両属体制をとる琉球国の処遇問題に着手し、1872年 (明治5) 琉球国を「琉球藩」として扱った。さらに、1875年(明治8) 5月「藩内保護」の名目で熊本鎮台分遣隊の派遣を決定し、真和志間切古波蔵村周辺の18,603坪余を駐屯地敷地とし、兵舎・練兵場等を設置した。

 1879年 (明治12) 3月25日、処分官松田道之とともに分遣隊2個中隊400名余が那覇港に到着した。同27日松田処分官が沖縄県設置、首里城明け渡し等の処分を断行し、31日に分遣隊の一個中隊が首里城に入城した。翌1880年、陸軍は駐屯地を首里城と定め、古波蔵駐屯地は使用されなくなった。

 日清戦争後の1896年 (明治29) 7月に分遣隊の沖縄派遣が終了したため、古波蔵駐屯地は農事試験場用地として使用された。1909年(明治42)に真和志村が敷地の払い下げを受けたが、1928年(昭和3)に、改めて敷地約4,000坪余を陸軍へ提供し、在郷軍人の演習等に使用された。これ以降、付近住民は一帯を「兵隊屋(ヒータイヤー)」と呼んだ。

 沖縄戦後、この一帯は米軍の貯油施設 (註・米軍基地「与儀タンクファーム」) として使用されていたが、1972年(昭和47)に沖縄の本土復帰とともに返還され、区画整理事業の実施(1971 ~ 1991年)により、住宅地となった。一帯は現在でも「タンク跡」と呼ばれている。

那覇市歴史博物館

 

今も変わらぬ「処分」という「眼差し」

 

警察官160名+陸軍400名、あわせて 560人とは、いったい、どれぐらいの派兵だったのか、

 

現代に置きかえて想像してみたい。

 

2016年7月22日。高江のヘリパット工事を強行するため、反対する県民を排除せよと、全国から機動隊員 500人が投入された。

 

f:id:neverforget1945:20190327060213p:plain

(県道を埋め尽くした各地からの機動隊、7月23日、撮影G氏)

7月中旬、高江のヘリパッド工事を強行するために、全国から500名ほどの機動隊(警視庁、千葉県警、神奈川県警、福岡県警、愛知県警、大阪府警)が沖縄に派遣された。

他府県の機動隊の沖縄への派遣問題について - チョイさんの沖縄日記

 

f:id:neverforget1945:20190327061530p:plain

足で市民をはらおうとする機動隊員とそれを制止しようとする機動隊員。

f:id:neverforget1945:20190327061137p:plain

アキノ隊員の鱗翅体験:N1ヘリパッド建設工事強行 (2016年7月22日、東村高江)

 

警察庁

関係府県に機動隊派遣を通知したのは7月11日

 

実に、7月10日参議院選挙で基地反対派の候補伊波洋一氏がゼロ打ちで勝利した、その翌日のことだった。

 

沖縄の選挙結果など、

沖縄の民主主義など、なんの意味もないんだと、

面前で愚弄しているかのようだ。

 

f:id:neverforget1945:20190327062422p:plain

 

こうして機動隊をフル稼働させ、ちゃっちゃと高江ヘリパットは年内に「完成」させました宣言をし、そして翌年、今度は辺野古に機動隊をさし向けた。

 

そして、それが今に続いている。

 

22日正午、米軍キャンプ・シュワブのゲートの前では、きょうも有志の市民が座り込みを続けています。次々と基地内に入るミキサー車に「美ら海を基地にしてたまるか!」とプラカードを掲げて抗議しています。#沖縄 #辺野古 pic.twitter.com/5UmF4syWw4

沖縄タイムス辺野古・高江取材班 (@times_henoko) 2021年2月22日

 

3月26日午後、外防委で沖縄防衛局の南部土砂採取を質す。沖縄防衛局が南部地区から3159万㎥を採取可能とし、昨年9月16日に国から鉱業法上の施業案認可を受けた業者が自然公園法や森林法、農地法違反のまま沖縄戦跡公園内で土砂採取を開始し、昨年11月10日に県が中止を指示した。違法採取は許せない。 pic.twitter.com/tsvxIcIE5Y

— 伊波 洋一 (いは よういち) (@ihayoichi) 2021年3月26日

 

英紙ガーディアンも報道 世界で注目高まる 沖縄戦の遺骨が残る土砂で辺野古埋め立て https://t.co/aMVSy2RMFq #普天間移設・辺野古新基地 #沖縄戦 #遺骨収集 #okinawa #沖縄

沖縄タイムス (@theokinawatimes) 2021年3月25日

 

警官は旧士族ら100人余を拘束し拷問した。両手を縛り、はりにつるし、棒で殴った。皮膚や肉が破れた痛さで泣き叫ぶ声が獄外に響き、人々を震え上がらせた。137年前の「琉球処分」で、明治政府は「沖縄県設置」を宣言後、多くの警官を沖縄に投入した。抵抗する旧士族に「アメ」として地位や給与を与えたが効果は上がらず、最後は暴力で弾圧した。

その歴史と二重写しに見えてならない。政府は、米軍北部訓練場のヘリパッド建設に反対する住民を抑え込むため、全国各地の機動隊員を県内に派遣した。現場では衝突が起き、けが人も出た辺野古、北部訓練場の米軍施設建設に反対する候補が参院選で当選したばかり。民主主義の根幹である選挙で示した「民意」はこんなにも軽いのか。沖縄の「意思」が軽んじられる既視感は「琉球処分」にとどまらな対日講和条約で沖縄が日本から切り離された428「屈辱の日」、広大な基地を残しての日本復帰、最近ではオスプレイ配備撤回と米軍普天間基地の県内移設断念を求めた2013年の「建白書」...。枚挙にいとまがない。タイムスリップとは違う。歴史が繰り返されている現実がある。「国益」の名の下で「民意」がないがしろにされ続けている。実のところ「琉球処分」はまだ続いているのかもしれない。沖縄が「処分」されない日はいつ来るのだろうか。

 2016年07月28日 <金口木舌>いまだ続く「琉球処分」 - 琉球新報デジタル

 

今日。

 

琉球処分から

142回目の3月27日がきた。

 

沖縄に対して「処分」という言葉を使った日本政府の、その「処分」のまなざしは、

 

142年たった今も続いている。

 

沖縄への基地押しつけは、

畢竟、日本の良心と民主主義が問われている、日本の問題だ。

 

 

■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■

*1:琉球ハ南海ニ僻在シタル僅カニ周回百余里ノ小島ニテ従来寸兵ヲヘス礼義ヲ以維持ノ道ヲ立外国船来航ノ節モ全クロ舌而已ヲ以テ応待シ今日マテ無異ニ治り来リ候、新ニ兵営ヲ御設立相成候ハ丶夫丈外国ヨリモ手強ク押掛リ却テ困難ヲ生シ可申・・・」沖縄県史: 資料編 IV-V. 雑纂 1-2 (琉球政府, 1965)