1879年のきょう、3月27日
日本政府から派遣された内務大書記官松田道之は、警官160名、熊本鎮台分遣隊400人 (日本陸軍の部隊) の武装兵力をしたがえて首里城にやってきた。
※ 熊本鎮台(くまもとちんだい)(1873-1888年) とは、九州の日本陸軍部隊。1874年の台湾出兵、佐賀の乱を鎮圧。1877年の西南戦争を戦った。
松田道之「琉球処分官」は、「31日正午までに城を立ち退き、熊本鎮台分遣隊に明け渡せ。藩主は東京に居住せよ」と「廃藩置県」の通達を読み上げ、一方的に首里城明け渡しを命じた。
日本政府は、こうして武力により強制的に琉球を併合、500年つづいた琉球王国を「処分」させたのです。
この日、日本政府の命を受けた内務大書記官の松田道之は、警官160名、熊本鎮台分遣隊400人の武装兵力をもって首里城へ向かいました。
松田は、琉球藩王尚泰が、日本政府のたびたびの命令に従わないので、琉球藩を廃止し、沖縄県を設置するという命令書を読み上げ、「廃藩置県」を通達しました。さらに尚泰の東京居住、琉球の土地人民と書類の引渡し、首里城明渡しなどを命じました。
同年4月4日には「琉球藩ヲ廃シ沖縄縣ヲ置ク」(1879年4月4日 布告第14号)で琉球藩の廃止と沖縄県設置を全国に布告しました。
15世紀初めに統一国家として成立してから450年余(察度王統からだと500年余)にわたって続いた琉球王国は終焉し、代わって沖縄県が設置されました。 日本政府は1872年(明治5)に琉球国を廃して琉球藩としており、この琉球藩設置から沖縄県設置までの一連の措置は、政府の公文書にちなんで「琉球処分」と呼ばれます。
これに先立って・・・
なんとか状況を好転させようと奔走したのが池城安規。1875年、池城安規が使節団の代表として東京へ赴いた。
これに先立って、琉球王国側は明治政府と折衝していました。写真中央の人物は池城安規(いけぐすく・あんき)で、琉球王府の重職である三司官(さんしかん)をつとめました。二度上京し、王府存続のために尽力しましたが、1877(明治10)年東京で客死しました。
明治政府大久保利通内務卿の要求は、
1. 琉球人を守るため台湾出兵してやったから国王尚泰は上京しろ
2. 日本軍の鎮台分営 (駐屯地) を沖縄に設置しろ
3. 中国との外交関係を一掃しろ
などというもので、これにたいして池城は激しく抵抗し、こう語ったといわれる。
琉球は軍備によらず、礼儀と話し合いで外国に対応し、平和を維持してきた。鎮台 (基地) をおけば外国から武力で強要される。
琉球は、遠方の一貧乏国に過ぎないため、これを守るのに軍備は必要とせず、逆に軍備することにより、列強諸国の注目を浴び、外国諸勢力の武力行使を招引する危険性が高まる。
皮肉なことに、池城の危惧は、それから66年後に現実の悪夢となって訪れる。
池城は必死の交渉を続けたが、失意のなか、1877年4月30日、東京の琉球藩邸で亡くなった。
そうして、
ついに「その時」がやってきた。
1879年 3月27日、大勢の警察官と軍隊とをともなって首里城に琉球藩処分官がやってきたのだ。
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松田道之(前列中央)をはじめ琉球出張の随行者9名が写っています。1879年(明治12)の琉球処分後に東京で撮影したとされています。
琉球新報2015年1月23日
道標求めて 琉米条約160年主権を問う
結局、大久保利通の要求にあるように、「琉球処分」とは、日本軍の駐屯地を置けという基地問題でもあった。
那覇市字古波蔵393 ちびっこ公園
明治維新を成し遂げた新政府は、領土確定を図るため、日清両属体制をとる琉球国の処遇問題に着手し、1872年 (明治5) 琉球国を「琉球藩」として扱った。さらに、1875年(明治8) 5月「藩内保護」の名目で熊本鎮台分遣隊の派遣を決定し、真和志間切古波蔵村周辺の18,603坪余を駐屯地敷地とし、兵舎・練兵場等を設置した。
1879年 (明治12) 3月25日、処分官松田道之とともに分遣隊2個中隊400名余が那覇港に到着した。同27日松田処分官が沖縄県設置、首里城明け渡し等の処分を断行し、31日に分遣隊の一個中隊が首里城に入城した。翌1880年、陸軍は駐屯地を首里城と定め、古波蔵駐屯地は使用されなくなった。
日清戦争後の1896年 (明治29) 7月に分遣隊の沖縄派遣が終了したため、古波蔵駐屯地は農事試験場用地として使用された。1909年(明治42)に真和志村が敷地の払い下げを受けたが、1928年(昭和3)に、改めて敷地約4,000坪余を陸軍へ提供し、在郷軍人の演習等に使用された。これ以降、付近住民は一帯を「兵隊屋(ヒータイヤー)」と呼んだ。
沖縄戦後、この一帯は米軍の貯油施設(ガソリンタンク)として使用されていたが、1972年(昭和47)に沖縄の本土復帰とともに返還され、区画整理事業の実施(1971 ~ 1991年)により、住宅地となった。一帯は現在でも「タンク跡」と呼ばれている。
警察官160名+陸軍400名、あわせて 560人とは、いったい、どれぐらいの派兵だったのか、
現代に置きかえて想像してみたい。
2016年 7月22日。
高江のヘリパット工事強行するため、反対する県民を排除するために、全国から機動隊員 500人が投入された。
(県道を埋め尽くした各地からの機動隊、7月23日、撮影G氏)
7月中旬、高江のヘリパッド工事を強行するために、全国から500名ほどの機動隊(警視庁、千葉県警、神奈川県警、福岡県警、愛知県警、大阪府警)が沖縄に派遣された。
足で市民をはらおうとする機動隊員とそれを制止しようとする機動隊員。
警察庁が
関係府県に機動隊派遣を通知したのは7月11日。
実に、7月10日の参議院選挙で基地反対派の候補伊波洋一氏がゼロ打ちで勝利した翌日のことだった。
沖縄の選挙結果など、
なんの意味もないんだと、
面前で愚弄しているかのようだった。
ちゃっちゃと高江ヘリパットは年内に「完成」させる宣言をして、そして翌年、今度は辺野古に機動隊をさし向けた。
そして、それが今に続いている。
今日。
琉球処分から
140回目の3月27日がきた。
今朝の沖縄タイムス
19日午後3時から、名護市辺野古の米軍キャンプ・シュワブゲート前で、本日3回目となる工事車両の搬入が始まりました。機動隊が市民を排除し、生コン車や砕石などを積んだトラックなどが続々と基地内に入っていきます #辺野古 #
— 琉球新報辺野古・ヘリパッド取材班(沖縄) (@henokonow) March 19, 2019
henoko #沖縄 #沖縄 pic.twitter.com/HEe1nTyZyf
沖縄に対して「処分」という言葉を使った日本政府の、その「処分」のまなざしは、
140年たった今も続いている。
沖縄の基地問題は、
畢竟、日本の民主主義の問題だ。
「熊本鎮台分遣隊の沖縄派遣にみる─今も昔も「土人」です」出版舎Mugen代表・上間 常道 | コラム/沖縄発