1945年4月5日、今も続くアメリカ世

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【シリーズ沖縄戦】76年前の今日
1945年4月5日『沖縄にできた米軍政府 〜アメリカ世(ゆ)のはじまり〜』
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なぜ沖縄には多くの遺骨が埋まっており、そして現在も遺骨収集が継続されているのか。

 

日本の多くの国民にその基本的な歴史認識が広く共有されているのかどうか、はなはだ疑問である。

 

なにしろ教科書の沖縄戦記述すらが、あのような状況であり、「沖縄住民もよく協力しました」などと書かれるのである。 

 

実際、日本が多用する宗教的なレトリック「玉砕」のリアルというものは何だったのか。 どれだけの日本兵朝鮮人軍夫、沖縄の防衛隊員や住民が負傷兵やスパイとして「処分」されたのか。まだまだ研究は半ばである。

 

日本兵は撤退しながら、負傷兵の「処分」を命じられ、その歴史ごと沖縄の土砂に封じ込めた。

 

今日、引用したのは米軍による捕虜調書のごく一部である。

 

それでも日本は、今も多くの遺骨が眠る沖縄南部の土を、辺野古の埋め立てに使うという。 なぜ沖縄戦の犠牲者はこうして、国から何度も土砂に埋められねばらないのか。

 

… しかも県民投票で明確に反対されている米軍基地建設のために。
 
県民が50年前に危惧していたことが、今、現実になっている。
 
沖縄戦から76年目の今は、 「アメリカ世から大和ぬ世」ではない
「大和ぬ世とアメリカ世」のダブルである。

 

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【シリーズ沖縄戦】74年前の今日
『沖縄にできた米軍政府 〜アメリカ世(ゆ)のはじまり〜』
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唐ぬ世から大和ぬ世、
大和ぬ世からアメリカ世。

 

日本の防衛省
弾薬庫は作らないといいながら

ウソをついてき、そのウソを「説明が不十分だった」とウソで上塗りした。

 

また米海兵隊
地元の高江の住民が長年抗議してきた N1 ゲートの、テントや椅子や簡易トイレやメッセージブックまでごっそり奪い取り、平然と「日米地位協定に基づく権利を行使した」などと回答した。

 

沖縄戦から74年たっても、

 

ぬーがぬーやらむるわからん
(何が何やらまったくわからん)

 

そんなアメリカ世がいまだ続いている。

 

日本軍も米軍も
沖縄を守るといいつつ、
守っているのは常に何か他のものだった。

 

74年前、
戦争の足手まといになる住民はあちこちに追いやられ、柵の中に入れられ、

 

子どもたちまで遺書をかかされ、生きて戻ってきただけで日本兵に疎まれた。

 

いざ「敵」が上陸しても気がついたら「友軍」は既にどこかに「転進」していた。

 

軍は軍の理屈で動く。
住民の命や生活などは「足手まとい」でしかなかった。

 

ご覧ください。⇩

 

2018年

== オスプレイ不安クラブ・ 沖縄戦シリーズ ==

▪️73年前のきょう: 1945年4月5日▪️

73年前の沖縄には、40〜50万人の住民がいた。

日米両軍が日本の南西に位置する小さな島々で戦闘するにあたり、住民の存在は邪魔でしかない。

さて、住民をどうするか。

軍隊というものは、武器と武器をつき合わせて戦う組織だ。

人間社会の運営や統制を専門とする組織ではないが、

慶良間諸島と沖縄島に上陸した米軍は、軍政府を設けた。

最前線には偵察や戦闘部隊を、後方にはインフラ整備と基地建設を担う部隊を配置し、

さらにその後方には、民間人や日本兵捕虜収容所を運営する部隊と人員を置いた。

前線にいた部隊は、通訳兵や日系米軍人、時には、すでに捕虜となった住民を使いながら、

戦闘の邪魔になる住民を見つけては集め、軍政府職員がいる後方に送った。

常に混乱状態にある戦場で、軍人か民間人かを一瞬で判断するには、

相手が身につけている衣服だけが頼りだ。

軍服、戦闘服を着ているのが軍人、そうでないのが民間人・・・のはずだが、

当時の日本国は、「軍民共生共死」という考えの社会であった。

小さな島々に軍隊と住民が混在した沖縄では、

軍人と民間人の区別が困難な場合も数多くあった。

沖縄には、軍服のようなものを身につけた少年たちがいた。

民間人の着物を身にまとい、武器を手に米軍に立ち向かった男たちがいた。

そして、のちに住民が戦闘員として「斬り込み」を命じられた伊江島では、

武器を手にした女性たちが米軍に立ち向かうことになる。

誰が民間人で、誰が軍人なのか。

誰が住民で、誰が戦闘員なのか。

「軍民共生共死」という考えが徹底していた沖縄では、

民間人が死を選択する場合も多くあった。

しかし、一命を取りとめた民間人は、米軍政府のもとで手足を受け、

投降した者たちは、レーション(糧食)を与えられた。

明治政府による琉球王国侵攻によって併合されたあとは、

「大和世(ゆ)」となった軍国主義社会で生きた琉球・沖縄の民たち。

米軍が上陸した日から約27年間は、「アメリカ世(ゆ)」で生きることになる。

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73年前のきのう: 1945年4月4日
https://www.facebook.com/ospreyfuanclub/posts/845967412258968

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オスプレイ不安クラブが配信する沖縄戦シリーズは、今年で3回目を迎えました。

今年も、3月23日から9月7日まで、『73年前のきょう』を配信いたします。

https://twitter.com/ospreyfuanclub2
⇧ ツイッターでの配信もありますので、今年もよろしくお願い致します。

 2017年

軍隊の仕事は戦争だ。

戦争の足かせ、邪魔になる民間人は、戦地から排除しなければいけない。

大陸などの陸続きの国なら、避難民となって国外に逃れることもできるだろう。

でも、沖縄では小さな島々に人が住んでいる。それらの島々から大勢の人びとを疎開させるとなると、相当な輸送船と輸送航空機が必要になる。

日本国は、きちんと対応しなかった。住民は疎開を命じられても、小さな子どもや老人、婦人だけの疎開など決心できなかった。また、行ったことも、見たこともない日本本土や台湾への疎開など、できるはずがなかった。

それよりも、沖縄には強い日本軍がいるのだからと安心していた。

米軍は、沖縄島とその周辺の島々に置かれた日本軍を叩くためには、沖縄で地上戦を展開しないといけない。

そのためには、住民を前線から排除しなければいけないと理解していた。

米軍は沖縄島上陸後から数日に見つけた住民を柵の中に閉じ込めた。そこで隔離した。まるで、家畜のような扱いだが。

その後、米軍は本島中部の村落に続々と収容所を開設する。

あちこちの村落で柵の中に入れられていた住民は、米軍のトラックに乗せられて、収容所での生活を始めた。

最初の数日で捕虜となった住民は、その後に沖縄各地で繰り広げられた地獄のような地上戦を経験することなく、終戦を迎えることができた。

しかし、青い目の「鬼畜米英」を恐るあまり、自決を選んだ人びとが多くいたし、

「強い日本軍と一緒なら安全だ」と考えた人びとは、日本軍の後を追って南へと向かった。

陸続きでない沖縄で海岸まで追いつめられたら、残された選択肢は少ない。鬼畜米英の捕虜になるか、その場で自決するか、海へ身を投げるかのどちらかだ。

そんな自国民の結末を想像することもできなかった大日本帝国

国民を洗脳するような国家は、美しくない。

国民を犠牲にしたり、敵国に差し出すような国家が美しいわけがない。

米軍が上陸してから「アメリカ世(ゆ)」が始まった。

72年前も、現在も、日本国は自国民に犠牲を強いて米国に差し出す。

今でもアメリカ世は続いている。

 


 

 

1945年 4月5日『沖縄にできた米軍政府 〜アメリカ世(ゆ)のはじまり〜』

neverforget1945.hatenablog.com

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→ 72年前の昨日 / 1945年4月4日 / 沖縄攻略のためのインフラ整備
https://www.facebook.com/ospreyfuanclub/posts/672162659639445

→ 72年前の明日 / 1945年4月6日 / 日本海軍の総攻撃
https://www.facebook.com/ospreyfuanclub/posts/673185232870521

http://neverforget1945.hatenablog.com/entry/2017/…/05/145524