第32軍のトップ2人が摩文仁の丘で自決したとされる日から、今日で2日が過ぎた。
だが、沖縄にいた日本軍のトップ2人が自決したからといって、他の日本兵たちにとっては関係ないことだった。
彼らに伝えられた命令は、最後まで戦えというものだ。
沖縄本島南部にいた多くの日本兵たちは、北部でゲリラ戦を展開し続けている部隊と合流し、持久戦を継続するつもりであった。
米軍は、北部を目指す日本兵や抵抗を続ける日本兵を捉えようと、73年前の今日も掃討を続けた。
あちこちの壕を、戦火を免れた家々を、徹底的に捜査した。
これまで戦闘の邪魔になるからと、保護の目的で住民を収容所に送っていた米軍だが、
「沖縄作戦」が終了した後は、民間人になりすました日本兵を捉えるため、
あるいは、集落の家屋や納屋などに潜む日本兵たちを見つけるために、
住民たちを集め、北部に設けた収容所へと送った。
とことんまで叩きつぶされていながら大日本帝国の軍人精神の虚勢に自らを縛り、自らのおかしたる惨憺たる無意味な破局を眺めながらついにさいごまでで虚栄のなかに反省もなく“帝国軍人らしく”自刃した。その軍部を象徴する暗いエゴイズムに戦慄する。旧日本軍の救い難い愚劣さ、非人間性、その恥と屈辱がここにコンデンス(凝縮)されている。
《岡本太郎『忘れられた日本 - 沖縄文化論』p. 18.》
牛島満司令官及び長勇参謀長とされる遺体
(投稿者注: リンク先はこの写真の撮影日を1945年年7月5日としている。また、この写真は牛島と長ではない人物の遺体である可能性を指摘する人びともいる。)