耕作地にひっそりとある自然壕「アハシャガマ」。島民約120人が避難し、圧倒的戦況不利で追われた日本兵も合流した。1945年4月22日、防衛隊が運び入れた機雷によって集団自決が起こり、150人の命が失われる。
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【シリーズ沖縄戦】74年前の今日
1945年4月22日 『伊江島の集団自決』
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4月16日に始まった伊江島の戦闘は、昨日の4月21日の午後5時30分、米軍の城山確保によって終結した。
しかし、本当の悪夢が伊江島を覆い尽くすのは、実はその後だったといえるだろう。
6日間、伊江島を焼き尽くした戦闘が終わり、それからどのように集団自決が始まっていったのか、
battle-of-okinawa.hatenablog.com
今はゆり祭りでにぎわう
伊江島だが。
しかし、74年前にこの島が生き抜いた歴史の、その意味を、私たちはちゃんと受け継いで生きているのだろうか。
つらい記憶のためや、強制収容所、また米軍土地強制接収などで、「生まれ島」を離れざるをえなかった住民も多かったと聞くが、
語ることすらできないほどの苦しみ。
黙される記憶。
年寄りたちが背負った心の重荷、その小さな背中に重くのしかかる記憶は、我々世代がひとりづづ分けあい背負い、継ぐべき遺産だが、
今を生きる我々はあまりにも目先のことばかりに終始して、時代の記憶に見向きもしない。
基地問題を考えても仕方がない、どうせムリだ、きりがない、と人はいう。
しかし、
基地あるがゆえに先祖がせおわされた沖縄戦の、その苦しみにまさる「しんどさ」など、いったいどこにあるというのだろう。
グソーの先祖に思いをはせる
このシーミーの季節、
時代をみつめ、
歴史を語り継ぐ。
それはシーミーのお供え物と同じぐらい大切なことではないか。