沖縄の玄関口、那覇空港

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《AIでカラー処理》海岸に到着した第4海兵師団第2大隊。(1945年6月4日撮影)

Troops of the Fourth Marines, 2nd Battalion, come in on the beach.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

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【シリーズ沖縄戦】74年前の今日
1945年6月4日 『米軍、小禄半島に上陸』
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74年前の今日、
米軍は小禄半島に上陸した。

 

沖縄の玄関口、
民共用の那覇空港と、戦闘機のならぶ航空自衛隊那覇駐屯地のあるその広大な一帯には

 

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かつて海と里の豊かさに支えられた
美しい旧小禄の集落があった。

 

今でも空自駐屯地内に拝所「箕隅宮」(ミーヌシン)があるのは、そういう歴史を物語っている。

 

歴史の知識にうらづけられた情報の大切さ。誰でも発信者となれる現在、現実に米軍や自衛隊が数々の墓所や拝所を「管理してくれて」ていて、ありがたいですね、などで終わるブログも多数散見される。歴史の知識がどれだけ大切かということは、同じものを見ても、深さがまったく異なるのだということに現れる。、歴史の知識に裏付けされたこのブログは素晴らしいので紹介したい。

 

箕隅宮(ミーヌシン)参拝-陸上自衛隊那覇駐屯地 | まぁびぃせんせー日記

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那覇市小禄の西北岸地域にかつてあった鏡水村(カガンジ)は、鏡水大根(カガンジデークニ)の生産地として名を馳せていました。しかし、1933年に小禄海軍飛行場として、戦後には米軍基地として、土地は接収されてしまい、鏡水の住民は移住を余儀なくされます。同時に大根の生産も廃れていきました。本土復帰後には、陸上自衛隊が駐屯し、那覇空港などの再開発で鏡水は大きく変わってしまいました。

箕隅宮(ミーヌシン)参拝-陸上自衛隊那覇駐屯地 | まぁびぃせんせー日記

 

日本軍は、沖縄戦に先立つ 1933年、これらの土地を強制接収し小禄飛行場を建設。戦後はそのまま米軍基地となり、また日本に返還後、自衛隊基地となっている。

 

74年前の今日、


米軍はその日本軍の

小禄飛行場に標的をさだめる。

 

そこには、

いったんは南部に撤退したものを、32軍の「復帰の厳命」で小禄に丸腰で戻された大田中将率いる海軍部隊と、かき集められた県民の「兵士」と、多くの住民がいた。

  

okinawa1945.hatenablog.com

 

大型装備もほとんど失い、陸に上げられた海軍部隊は、文字通り、陸地に上げられた魚のようでもある。

 

思うに、第32軍は自分たちの時間稼ぎのため、太田中将ひきいる海軍部隊すらを盾にしておいて、「持久戦」なる時間稼ぎをしていたのだ。

 

そこに、今日、
海側から米軍が上陸する。

 

現在の小禄半島は、その大部分が那覇空港自衛隊基地として使用されているが、

 

日本軍のため、戦争のため、小禄半島にあった集落はこの世から消え、戻ることもできない。

 

みなさんが那覇空港に降り立つ際、

 

この戦闘機が過密にならぶ那覇駐屯地と那覇空港には、もともと人々の暮らしがあったということ

 

そこに今日、
米軍が上陸し、迫りくる死と向かい合ったということ、

 

そして今も那覇空港自体が巨大な自衛隊基地の一部であり、戦争のための拠点でもあるということに、

 

ospreyfuanclub.hatenadiary.com

 

思いを馳せてほしい。

 

 

ご覧ください。⇩

1945年 6月4日 『米軍、小禄半島に上陸』

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