32軍、南部への撤退を決定 - 日本軍からも米軍からも見捨てられた13万人のいのち

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《AIによるカラー処理》戦前昭和期の与那原駅周辺

 

ため息が出るほど美しい ! 

戦前の与那原駅周辺のようす。

 

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《AIによるカラー処理》写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

そして廃墟となった与那原。

AI によるカラー処理でもあまりうまくカラー化されていないが、左側に瓦屋根の住宅の形をとどめている家屋が何軒かみえる。

 

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【シリーズ沖縄戦】74年前の今日
1945年5月22日 『死ぬまで戦う運命』
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南部には13万人ともみられる住民がいるようだ。

一時休戦を申し入れ、住民を保護すべきではないか。

 

これは、NHKスペシャル沖縄戦 全記録」で紹介された米軍側の資料にあった内容だ。

 

NHKスペシャルは、

 

アメリカ軍のバーンズ曹長が記した「OKINAWA DIARY」から、日本軍南部への撤退を見越して、アメリカ軍司令部内で、協議が繰り返されていたことも初めて明らかになった。

 

と前置きした上で、

上の内容を紹介し、次のように続けた。

 

アメリカ軍は、一時休戦して民間人を救出し、北部に移送する計画を立てようとしていた。しかし、この計画は実現することはなかった。

 

この一時休戦が検討されたのは5月22日。奇しくも牛島中将が、南部撤退を決意した、まさにその日だった。

 

73年前の今日、

第32軍司令官の牛島満中将は、

『死ぬまで戦う運命』を選択した。

 

それが自分の運命だけの選択だったのなら、

「どうぞご自由に」となるが、

 

「皇土」を優先しただけの、

その誤った選択で、

 

もともと沖縄本島南部にいた住民や、軍から南部に避難せよといわれて南部に移動した住民が、

 

これから一か月間で

おびただしく命を奪われていく。

 

第32軍の決断は、

本土決戦にまでの時間稼ぎ。

1日でも長く米軍を沖縄に留めておくための決断だった。

 

この決断一つだけでも、

沖縄が捨て石にされた」のは、明白である。

 

13万人ともいわれる

南部に避難した沖縄人の命より、

南部にいた沖縄人の安全な場所を確保するより、

本土決戦をただただ遅らせるほうが

最優先事項であった。

 

NHKスペシャルによると、

 

日本軍の南部撤退後、犠牲者数は急増し、6月以降に犠牲になった住民は4万6042人。

 

なんと、全体の6割近くが命を落としていた、という。

 

特に、日本軍の組織的戦闘が終わる6月23日までの1週間は死者数が突出しており、わずか1日で5502人が亡くなった日もあった。

  

 

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 ご覧ください。⇩

1945年 5月22日 『死ぬまで戦う運命』

neverforget1945.hatenablog.com