米軍が読谷に上陸した大きな理由は2つ。① 日本本土を攻撃する前線基地となりうる読谷飛行場(北飛行場)があったこと ② 攻撃を支えるために必要な物資の荷下ろしができる浜があったこと、だった。一方で、日本軍にとっての沖縄は、本土決戦の準備のための「時間かせぎ」の場とされた。
読谷村民は沖縄戦で2947人が犠牲となり、その65%に当たる1933人が、米軍が上陸した1945年4月から6月にかけて亡くなっていることが分かっている(2002年3月時点)。
76年前の今日午前8時30分。 読谷・嘉手納に米軍が上陸した。 「イースター(復活祭)の朝、攻撃開始時刻に海岸から進軍する海兵隊の第1陣。反撃がないのはエイプリルフールだからなのか、出来過ぎた話だ」「反撃どころか、いささかの抵抗もない」と米軍は記録している。
一方、作戦参謀 #八原博通 は「実に爽快きわまりない夜明け」「準備は整っている」と記す。 寝技に持ち込んだ日本軍にとって、飛行場が不要であれば、その建設維持管理部隊も「不要」なのか、農林学校の学徒隊と共に、丸腰の特設第1連隊を米軍の目前に差しだす。「怒濤のような敵大陸軍の真只中に、戦力零に等しい私たち飛行場大隊だけを追いやり、自分達は南部の堅城に拠っている軍司令部の冷酷な仕打は、特設第1連隊将兵が、決して忘れることができないのだ。体の底からこみ上げてくる怒りを、私は火焰を見つめながら必死に抑えていた。」(沖縄戦記)4月1日 沖縄島の米軍上陸が始まった。 その時、日本軍は何をしたのか、しっかりと記憶しておきたい。
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【シリーズ沖縄戦】74年前の今日
1945年 4月1日『米軍、沖縄島に上陸』
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その日もそんな朝だった。
青く澄みわたる空が広がり、心地よい風が吹いていて、鳥のさえずりが聞こえる。そんな朝のはずだった。午前5時半から開始された空爆と艦砲射撃による爆煙で満たされた。3時間に約10万発。
聞こえてくる音は、何万発と撃ち込まれた爆弾が飛んでくる音と炸裂する音。
そして、島が粉々になるのではないか、と思えるほどの地響きが続いた。
復活祭の日にはふさわしくない、「平和」とは程遠い、地獄の音がした。
一週間続いた地獄の音が、ようやく止んだかと思った午前8時半、
重武装した数万人規模の米兵が嘉手納、読谷、北谷の海岸に次々と上陸した。
なぜ米軍は嘉手納、読谷、北谷を目指したのか。
いうまでもない。日本軍が文字通り学徒まで総動員してまで建設に邁進した、上飛行場 (読谷)、中飛行場 (嘉手納)、2つの日本軍基地がそこにあったからだ。
住民は、何も知らされてない。
何もかもが、今まで日本軍が言ってきたこととは真逆だった。
海に広がる米艦隊。次々と上陸する米兵。そしして「友軍機は一機もこない。友軍は一発も撃たない。」
目の前の現実に、ひとびとは何を感じただろう。
村は戦場となり、人々は逃げ惑う。
ひとりの老婆は、日本兵士を見据え、こう言いはなった。
兵隊さん、アメリカーが来たよ。嘘ばかりついて。
読谷も、嘉手納も、伊江島も。
まず、日本軍が住民から土地を接収し、そしてその基地を米軍が接収した。
土地は奪われ、標的とされ、おびただしい命が奪われた。基地になるとはこういうことだ。
浅瀬を歩き、海岸に向かう海兵隊員。(1945年4月1日撮影)
Marines wading in to the beach.
4
月1日、日曜日の今日は、
キリスト教を信仰する人たちにとって、最も重要な日だ。
十字架にかけられて死んだキリストが生き返ったことをを祝う「復活祭(イースター)」の日である。
今日の沖縄は青く澄みわたる空が広がり、心地よい風が吹いていて、
車が行き交う音のなか、鳥のさえずりが聞こえる。
新しい日の始まりは、特にゆったりとした時間が流れる日曜日の朝は、
普段は気に止めることさえない、何気ない風景や音をとらえることができる。
そんな小さなことを感じる心のゆとりが「平和」なのかもしれない。
73年前のきょう、
1945年4月1日、
あの日も復活祭を祝う日曜日だった。
沖縄の空は、午前5時半から開始された空爆と艦砲射撃による爆煙で灰色になった。
聞こえてくる音は、何万発と撃ち込まれた爆弾が飛んでくる音と炸裂する音。
そして、島が粉々になるのではないか、と思えるほどの地響きが続いた。
復活祭の日にはふさわしくない、「平和」とは程遠い、地獄の音がした。
一週間続いた地獄の音が、ようやく止んだかと思った午前8時半、
重武装した数万人規模の米兵が嘉手納、読谷、北谷の海岸に次々と上陸した。
五穀豊穣をもたらすはずのニライカナイの海の彼方から「地獄」がやってきた。