1945年4月21日、「伊江島の戦い」は、本当に終わったのか - ~その時、沖縄は~
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【シリーズ沖縄戦】74年前の今日
1945年8月19日 『伊江島に降り立った日本降伏使節団』
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74年前の今日、
伊江島の米軍基地に日本の降伏使節団が降り立った。
連合国は日本にマニラにある連合国司令部に降伏手続きを遂行するための代表団派遣を命じ、
日本の代表団は、中継点の伊江島飛行場から、マッカーサーの指示で米軍機に乗り換えマニラへと飛び立ったのだが、
皮肉であるのは、
学徒や住民を総動員して作りあげ、当時「東洋一」と呼ばれた日本軍の北飛行場は、ほとんど使用されることもなく日本軍みずからが破壊した。
米軍により接収され日本本土攻撃のための基地として使われることを恐れたためである。
日本軍が作った基地が米軍に接収され米軍基地となったものは多い。伊江島、読谷、嘉手納、那覇。日本軍が土地接収し建設した基地は沖縄戦でことごとく米軍基地となり、日本を攻撃するために使われた。つまり、いったん建設された基地は、「敵」「味方」のくべつなく、双方にとっての諸刃の剣であり、人間を攻撃するために再利用される。
いままた辺野古新基地を日本は日本の国民の税金で作ろうとしている。沖縄の山を削り海を埋め、不平等な地位協定に遮断された米軍基地であるにもかかわらず、日本の我々の税金が湯水のように使われる。
その「東洋一」の北飛行場は、
既に米軍によって完全に修復拡張され、
今や立派な米軍基地「伊江島飛行場」となっていた。
伊江島の米軍飛行場に降りたった日本政府の代表団は
いったい何を思っただろうか。
日本軍が華々しい売り文句を掲げて構築した「東洋一」は、いざとなると、伊江島の島民を守るどころか、島民を生きた「標的」にさせ、住民の半数が命を落とした。
生き残った伊江島の住民は最も劣悪な環境にあった辺野古・大浦崎収容所などに収容され、収容所で生きるためのせいいっぱいの戦いを続けていた。
battle-of-okinawa.hatenablog.com
また、開南中学の低学年は通信隊として歩兵第32連隊に配属され、飢えと恐怖のなかで掃討戦にたえていた。彼らが投降したのは8月29日。
開南中学から62師団に配属された学生62人だけでも、戦死者は50人だ。戦後、開南中学はその不幸な歴史を残して消える。戦争は学校を丸ごと消し去ったのだ
battle-of-okinawa.hatenablog.com
尖閣諸島の魚釣島では50日間の戦時遭難の末、やっと石垣に戻ることができたが、極限的な身体的状況から回復することは極めては困難であり、また魚釣島に残された6人が帰還できたのは11月だった。
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つまり、本土では終戦後の手続きが着々と始まっていたにもかかわらず、
沖縄戦はなおも続いていたのである。
今日の沖縄戦、ご覧ください。⇩