「ここに日本人はいない」 ー 読谷で当時千人ほどが避難していたというシムクガマで、ハワイ移住経験の長かった平三さんと平次さんは、住民を説得し、臆することなく懸命に米兵と交渉。その時の様子を米軍のカメラがとらえていました。米兵がまず聞いた質問は、日本兵はここにいるか、ということでした。
76年前の今日米軍は上陸してわずか2日で東海岸付近に到達。また人々の運命も大きく分かれる。シムクガマ、チビチリガマ、クニー山壕…。日本軍や在郷軍人が壕の支配的な立場をとる壕と、そうでない壕の場合である。「米兵がまず聞いた質問は、日本兵はここにいるか、ということでした。」
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【シリーズ沖縄戦】74年前の今日
1945年4月2日『南北に分断された沖縄島』
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74年前の今日
読谷村にあるチビチリガマに避難していた住民約140人のうち、83人が集団自決でこの世を去った。
なぜこんなことに・・・。
そもそも、日本軍が「国家総動員法」の令のもと、75万坪の読谷の土地を接収し、文字通り住民「総動員」で基地を作らせたのは、その3年前のこと。
1943(昭和18)年夏、北(読谷)飛行場建設が日本陸軍航空本部によって計画された。その用地は、読谷村の字座喜味・喜名・伊良皆・大木・楚辺の五字にまたがる耕地を国家総動員法のもと、75万坪を強制接収し、戦時飛行場の建設が開始されることとなった。村民には土地の強制接収に加え、整備作業には各字割当でおおよそ5,000~6,000人がかり出され、食糧供出・荷馬車提供など困難な戦時生活を強いられた。
ところが、いざ米軍上陸となると、
日本軍のほとんどが、北と中の飛行場を自壊させ、首里に退却。米軍の上陸を傍観した。
嘉手納に至っては、農林学校生徒隊170名だけが陣地を守るという異常事態まで発生した。
続々と上陸し、
壕のまわりにやってくる米兵を前に
とりのこされた住民の混乱は
いかばかりのものだったか。
皇国教育とセットで
小学校から徹底して教え込まれた「敵」への恐怖心。
誰を信じ、誰を疑うか。
どれがフェイクニュースで、どれが真実なのか。
千人余りが避難していたシムクガマでは、ハワイに移民に行っていた二人の男性が、混乱し泣き叫ぶ住民を説得。
米軍と交渉にあたって全員が救われた。
一方、約140人が避難していたチビチリガマでは、命を護ることができたのは50人あまり。
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あまりに悲惨な経験をした生存者らは、
長い間、口を閉ざした。
チビチリガマでの集団自決が世間に知られるようになったのは、1983年。
つらい体験を語るには、
実に38年の歳月が必要だった。
あれから74年。
いまも、嘉手納の町の82%、読谷も35.6%が米軍基地で占められている。
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