1965年6月11日 読谷村、米軍トレーラー落下事故

 

1965年6月11日 読谷米軍トレーラー落下事故

強行される米軍のパラシュート降下訓練で、小学5年生の少女が下敷きになり死亡。

1965年(昭和40)6月11日、旧読谷飛行場で行われていた米軍の戦場物資パラシュート投下訓練中に、重さ2トン半のトレーラーが読谷村親志の民家そばに落下しました。旧読谷飛行場と民家はわずか500メートルの距離にあり、小学校5年生の女の子が鉄板に載ったトレーラーの下敷きとなって死亡しました。当時、沖縄ではベトナム戦争の激化とともに演習も増えて事故が多発しており、パラシュート投下訓練によって死者が出る最悪の事態となりました。

1965年6月11日 読谷村で米軍のトレーラーが落下し小学生死亡 – 沖縄県公文書館

この時点ではまだ幼い少女はトレーラーの下敷きになったままであったという。

「隆子ちゃん圧死事件」1965年6月、旧読谷飛行場で行われていたアメリカ軍の戦場物資パラシュート投下訓練中に、重さ2トン半のトレーラーが集落内に落下。その被害にあって亡くなったのが当時小学校5年生の隆子ちゃんだった。

基地あるが故の悲劇 [戦後] - ユンタンザミュージアム時空マップ | ツナガルマップ

松岡政保行政主席視察 読谷村親志小型トレーラー落下事件現場  1965年 6月12日     

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

 

落下事故を繰り返す米軍と、声を上げる読谷住民

日本軍が読谷の土地を強制接収し北飛行場を建設していたため、米軍の上陸地点となった読谷は、戦後、米軍の一大拠点となり、読谷村の面積の約95%の土地を米軍が占有した。

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2. 日本陸軍 沖縄北飛行場(読谷飛行場) - Basically Okinawa

 

故郷を奪われ、移転に続く移転を強いられながら、住民は基地返還の声をあげてきたが、帰還できた数少ない場所でも、安心した暮らしは戻ることはなかった。

米軍は1960年4月から特に頻繁に挺訓練(パラシュートによる物質等投下訓練)を行い、人々は頭上の米軍の危機に怯えながらの生活を強いられていた。

1 9 6 3年1月1 7、喜名のセメント瓦住宅に貨物が落下し損害を与えるとともに、同年4月3日には座喜味部落に落下。1 9 6 4年3月2 0には、座喜味、親志、喜名の数十ケ所にトン程度のコンクリートのかたまりやジープ、武器等が落下し、喜名から座喜味に至る県道1 2号線路上には弾薬の入った5 0ポンド木が落ち、パラシュート降下兵は住民地域や住居の屋根瓦に落下して損害を与えた。このような住民無視の米軍の空挺演習は絶えず地域住民を不安と恐怖におとしいれた。続発する演習被害に村民は日夜心配していた矢先に人命を奪う事故は引き起こされたのである。

『平和の炎』 Vol. 10, 読谷村総務部、 1998年、 3頁

 

読谷村議会は米軍に対し何度も強い抗議決議で訴えた。

そんななかで起こった事故である。

当村議会は、読谷飛行場において、米軍の落下傘降下演習による損害に対して演習の中止方に再三にわたり要請してきた。特に1 9 6 4年3月2 0日の降下演習において、親志、喜名、座喜味の演習地点付近の住民の屋根や宅地に貨物が投下され、大きな損害を蒙った。その後、付近住民は不安と恐怖におののいた矢先に去る6月1 1日、午後4時5 0分頃、しかも演習場から5 0 0米離れた、読谷村字座喜味2 3 0 6番地(宅地)にトレーラーが投下され、いたいけな幼い尊い人命(… 小学校4年生)が失われた。この悲痛極まりない惨事に対し、われわれは非憤慷慨その極に達している。要は再び起きたこの惨事を防ぐ方法はただ一つしかない。これは現にこの犠牲者を出した落下傘の降下演習を住民地域において禁止する以外ない。

1965年6月12日 読谷村議会『米軍落下傘降下演習に関する抗議決議』

 

しかし、またも翌年の19661129演習中の米軍機から投下された8.5kgの風速測定用角材座喜味部落の民家に落下し、屋根瓦をぶち抜いて床上に激突する事故がおこる。米軍はうんざりというほど繰り返す。

小波蔵政光行政副主席視察 読谷角材落下現場 穴のあいた屋根 1966年

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

 

日本の国民が沖縄について知っておかなければならないこと

読谷村は、長い年月をかけて、声を上げ、座り込み、土地を取り戻してきた。

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しかし、いまだ読谷村36%が米軍基地として接収されている。

戦後95%の土地が米軍に強制接収された読谷村 返還をスムーズにした”交渉術”と”風水”に活路も | OKITIVE

 

みなさんが何度「沖縄」を訪れ、リゾートとして沖縄を「消費」しても、もし歴史を知ろうと思わなければ、歴史に誠実に向き合おうとしなければ、声を上げる沖縄を目障りだと感じ、反対の声は反日だ非国民だ、などという戦前のような主張にいとも簡単に飲み込まれてしまうだろう。米軍に沖縄の土地を差し出し提供し、膨大な「思いやり」血税を米軍に提供しながら、軍や国の主張を無批判で信じるようになるだろう。それは戦前・戦中の痛ましい国民の姿と何ら変わらないものだ。

 

しかし、みなさんが通過するその「空港」や「道路」や「海岸」、みなさんが訪れる数々の「リゾートホテル」も「ゴルフ場」も「観光地」も、沖縄の住民が苦しみの中から声を上げることがなければ、今も米軍基地のままであっただろう場所である。

 

そのことは、必ず知っておかなければならないことである。

 

今も繰り返される米軍の降下訓練

現在、今も進行中で

頭上で繰り返される降下訓練と吊り下げ訓練。

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2020年2月25日、吊り下げを繰り返すトリイ・ステーション トラック級物資を落下させる - 在沖米軍基地事件簿

まだ事件の検証も声明もだされないうちから、またも読谷で吊り下げをおこなう。今度はフォークリフト

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落下事故の原因公表もまだなのに、なぜ米軍は読谷でヘリ吊り下げをくりかえすのか ! 今度はフォークリフト。 - 在沖米軍基地事件簿

ユマ砂漠でやっていた訓練を平気で嘉手納上空にもってくる米軍の暴力性。

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嘉手納市街地上空で米軍特殊部隊作戦のパラシュート降下訓練、なぜアリゾナ州ユマ郡の砂漠から沖縄に移転するのか。 - Osprey Fuan Club

 

沖縄を標的にした米軍の日常的なネグレクトと植民地主義、地元と沖縄県がどんなに抗議しようと、市街地上空で降下訓練ができるのは沖縄県だけだと、そうした構造的差別を可能にさせているのは、

 

日本独特の、民主主義と人権の知識の欠如、民主主義のころもをまとったナショナリズム、「自分さえよければ」のエゴイズムを都合よく隠ぺいするための、あからさまな、そして無意識の「沖縄差別」なのです。

 

 

米軍基地を沖縄に押しつけるために繰りだされる、数々の暴言と、言い訳と欺瞞。

「それで何人死んだんだ」

「それで何人死んだんだ」 松本文明内閣府副大臣(68…:問題発言集 写真特集:時事ドットコム

 

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