3月24日 沖縄の住民は、米軍の攻撃に反撃せず、ジッと沈黙する日本軍を目の当たりにした。

72年前の昨日、米軍は沖縄上陸前の空爆を開始。空爆は、これから連日続くことになる。

 

72年前のきょうからは、米軍は艦砲射撃も開始した。空爆も艦砲射撃も、朝から晩までひっきりなしに続いた。

 

想像してみて下さい。

 

海上に浮かぶ幾隻もの戦艦から放たれる砲弾が約9時間も連続的に着弾する。

 

雷とは比べものにならないほどの物凄い振動と恐ろしい轟音が一日中響く。空から、海から、爆弾の雨が降り、地を赤く染める。

 

このとき、住民が頼りにしていた日本軍は反撃しなかった。友軍機も来なかった。

 

住民を守っていたのは、珊瑚礁が隆起してできた沖縄の島々にあった洞穴。

 

しかし、そのような自然壕の多くは日本軍に占領されていたし、そもそも、沖縄県民全員が避難できるような数の壕はない。

 

人影を見つけると、米軍機はどんどん掃射してくる。小さな島々に住む40余万の沖縄県民は、どこへ身を隠せばよかったのか…。

 

人びとは、やんばるに生い茂る山の中に身を潜めようと、移動し始めた。

 

日本軍は住民を守ってくれる、日本軍は勇敢に反撃してくれる…と考えていた沖縄県民だが、日本軍は「沈黙戦術」を取った。

 

沖縄の住民は、米軍の攻撃に反撃せず、ジッと沈黙する日本軍を目の当たりにした。

 

沖縄にいた日本軍が米軍の艦砲射撃に反撃しなかった理由。

 

それは、反撃したら敵に高射砲の位置をを教えることになるから。自分たちの居場所を教えることになるから。

 

『軍隊は住民を守らない』

『軍隊がいたら、基地があったら、敵に攻撃される』

 

この時から、多くの住民がそう考え始める。

 

この苦い教訓は、今日まで受け継がれている。

 

この苦い教訓があるから、沖縄県民は軍隊の駐留に反対し続けるのだ。

 

neverforget1945.hatenablog.com

http://www.nhk.or.jp/okinawa/okinawasen70/picture/style/img/detail10_img.jpg

沖縄戦の絵】赤子を担いで渡河

昭和20年3月下旬ごろ、沖縄本島南部の南城市大里から本島北部に向けて疎開のため避難をしていたときのこと。今の金武町から更に北に向かう山の中でのある夜、あったはずの橋がなくなっていた日本軍によって壊されていたのだ