1959年6月30日『宮森小学校ジェット機墜落事故』 ~ いつ再び起こってもおかしくない米軍機事故

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《AIによるカラー処理》1959年6月30日『宮森小学校ジェット機墜落事故』

 

子どもたちの学校の上を米軍機が飛ぶ。整備不良の機体を県民の頭上で試験飛行させていた。そのジェット機が宮森小学校に墜落した。

 

知らせを聞いて青ざめて学校に駆けつけなければならない事態がいつ起こるかもしれないという潜在的恐怖は、60年たった今も変わらず続く。

 

今月6月5日にも、普天間から2キロはなれた浦添市浦西中学の校庭にヘリから落下物が。薄いビニールシートが部活中の生徒の足元におちた。

2017年12月7日には、射性物資ストロンチウム90試料の保護カバーが落下、12月13日には、普天間第二小学校の校庭に CH53の窓が落下するという恐怖を経験した。

 

せめて学校の上は飛ばないでくれ、その切実な要請はなぜ本土や米軍に届かないのだろうか。

 

米軍による統治下では、県民が相対するのは直接、米軍だった。本土復帰は、沖縄の抵抗が米軍という厚い壁を突き破ったともいえる。翻って現在はどうか。沖縄に寄って立つべき日本政府は常に米国の側に立つ。米軍普天間飛行場の名護市辺野古移設に伴う新基地建設でも、県民が「ノー」という民意を示しても政府にないがしろにされる。なぜ、米軍統治下の復帰前よりも沖縄の民意が通じないのか。現在の沖縄は、宮森小の事故が起きた当時よりも厳しい立場にあるようにすら感じる。民意が無視され続ける現状には、民主主義の崩壊すらも懸念される。

沖縄・宮森小米軍ジェット機墜落事故とは 識者の視点 - 琉球新報 - 沖縄の新聞、地域のニュース

 

 

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60年前の今日
1959年6月30日『宮森小学校ジェット機墜落事故』
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60年前の今日、

1959年6月30日火曜日、

午前10時40分の悪夢。

 

子どもたちは学び舎にいた。

 

うるま市石川の上空を飛行中の嘉手納基地所属F100D戦闘機が突然火を噴き、宮森小学校近く住宅地に墜落。衝撃で地面から跳ねあがった機体はそのまま宮森小学校の校舎に激突した。飛び散った燃料で現場は瞬く間に火の海に。

 

児童12人と付近の住民6人を含む18人が死亡。210人が重軽傷(うち児童156名)、住家17棟、公民館1棟、小学校の3教室を全焼、住家8棟、2教室を半焼する大惨事となった。

 

整備不良の機体を県民の頭上で試験飛行させていた。そのジェット機が宮森小学校に墜落した。

 

Qプラスリポート 宮森小事故から59年 医療報告書が伝える“実相” – QAB NEWS

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宮森事件とは|映画ひまわり〜沖縄は忘れない あの日の空を〜

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米軍の医療報告書に封印された沖縄の「傷痕」~石川・宮森米軍機墜落事故から59年。すべては統治のための治療だった  

島袋夏子 (琉球朝日放送記者) - 朝日新聞社の言論サイト

2018年07月08日

  

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児童11人含む17人死亡、200人超が重軽傷

 

 およそ60年前に米軍が作成した公文書を取材の過程で入手したのは偶然のことだった。米軍統治下の沖縄で起きた「石川・宮森米軍機墜落事故」の被害者たちの医療報告書である。

 

 読み始めてすぐに、言葉を失った。下着同然の姿になり、鬱々とした表情でカメラの前に立たされた人々の身体には、夥しいケロイドや生々しい傷痕が残されていた。ほとんどが幼い子どもたちだった。

 

 直視することができなくなり、いったんファイルを閉じた。そこにいたのは、長く忘れられた人々だった。

 

 事故は1959年6月30日、沖縄県石川市(現うるま市)で起きた。嘉手納基地を飛び立った米軍ジェット戦闘機が住宅密集地に墜落した。パイロットは操縦不能となった機体を捨てパラシュートで脱出したが、機体は街に突っ込み、小学校の校舎や民家が炎に包まれた。児童11人を含む17人が死亡し、200人以上が重軽傷を負った。

 

 毎年6月になると、沖縄のメディアは「慰霊の日」と「石川・宮森ジェット機事故」の企画に取り組む。しかし、過去の報道を遡って調べても、負傷者の姿はほとんど見えてこなかった。

 

 米軍が作成した医療報告書によると、負傷者は210人とされ、このうち米陸軍病院で治療を受けた32人の医療記録が書かれていた。ローマ字で記された負傷者の名前を手掛かりに、彼らの行方を追った。

 

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拡大米陸軍病院に入院中の玉城さん(1961年の医療報告書より)

 

真っ黒に焼けた小さな手

 

 真っ黒に焼けた小さな手の写真を見つけた。その主を探すなかで、2016年、ある男性に辿り着いた。当時4歳だった玉城智(64)さんだ。

 

 家を訪ねると、満面の笑みで迎えてくれた。ところが、お茶を飲み終わり、インタビューを申し入れると、頑なに拒んだ。結婚し、子どもにも恵まれ、穏やかに暮らしているが、家族には事故について語ったことがないという。

 

 「事故のことはもう思い出したくない」。表情は厳しかった。諦めきれず、何度もお願いを重ねた。そして、取材に応じてもらった。

 

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拡大玉城智さん=2016年、琉球朝日放送提供

 

 玉城さんは、小学校に隣接する幼稚園に通っていた。運動場のブランコで遊んでいた時、爆風で吹き飛ばされた。現場で意識が戻った時、右腕が焼けただれ、あまりの痛さから砂場に患部をこすりつけたこと、一緒に遊んでいた上級生の男の子が亡くなったことを語った。

 

 やけどは顔や右腕、両足など、全身の25%に及んでいた。医療報告書の写真には、酷く損傷した小指があった。玉城さんに写真を確認してもらうと、手を見せながら説明した。

 

「(写っている)小指は、入院中、ポキッと折れてしまいました」

 

 4歳の子どもが、どんなに怖くて、痛くて、苦しい思いをしたのだろう。無理を言って、証言させてしまったことを申し訳なく思った。

 

 何より辛かったのは、その後だったという。「世間の人から(ケロイドを)じろじろ見られている気がして辛かった」。玉城さんが、そう吐露すると、心配そうに傍で見守っていた奥さんの泣き声が聞こえた。

 

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拡大米軍医療報告書の新垣晃さん(1961年の医療報告書より)

 

18人目の犠牲者

 

 「母ちゃん、もっと兄弟がいたらよかったのにね」。一人残していく母親のことを思い、息子が語った最期の言葉だ。

 

 新垣晃さんは、事故から17年後に亡くなった。長く存在を知られていなかったが、2009年、18人目の犠牲者として、慰霊碑に刻銘された。母のハルさん(90)は46年間、毎朝欠かさず、仏壇にお茶を供え、遺影に話しかけている。

 

 事故が起きたのは、晃さんが小学2年のときだった。ハルさんは、米軍基地内でハウスメイドをしながら、一人で晃さんを育てていた。勤め先で一報を聞き、急いで現場に向かった。探し回った末、米陸軍病院で対面した息子は、痛ましい姿でベッドに横たわっていた。

 

 晃さんは、顔や首、両手足など全身の45%をやけどしていた。「髪の毛が全部抜けて、真っ赤になっていた。それを見てもどうしようもなく、一緒にベッドに寝て」。ハルさんは話の途中で、涙声になり、黙り込んでしまった。

 

 事故から1年半後に作成された医療報告書には、ケロイドが腫れあがり、激しいかゆみを伴っていると書かれていた。しかし次のように結論付けていた。

 

「やけどの痕は徐々に良くなっていて、1年か1年半後に再検査するが、手術の必要はないだろう」

 

 ケロイドは残ったが、体調は回復しているかに見えた。小学5年になると、家計を助けるために新聞配達のアルバイトもしていた。高校時代には陸上部に入り、体育教師を目指して琉球大学に進学した。

 

 ところが卒業を目前に、晃さんは25歳で亡くなった。医師からは、やけどの後遺症で汗がかけないため、腎臓に負担がかかっていると言われたという。いつか息子が結婚し、孫と幸せに暮らせるかもしれない、ハルさんの夢は叶わなかった。

 

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拡大大学時代の新垣晃さん=琉球朝日放送Qプラス6月29日より

 

「統治」のための治療

 

 医療報告書は何の目的で作られたのだろうか。

 

 1959年、沖縄は日本から切り離され、米軍統治下に置かれていた。憲法は適用されず、人権侵害が横行していた。一方、日本本土では岸政権が安保改定に向け、米国と交渉の大詰めに入っていた。

 

 ワシントンポスト紙は当時、「この事故が沖縄の反米感情だけでなく、民族的つながりを持つ日本国民の間にも、米国に対する悪感情を引き起こす要因になる」と指摘していた。

 

 事故を風化させてはならないと、当時の児童や地元の人たちで9年前に結成した「石川・宮森630会」が入手した資料から、さらに事実が明らかになってきた。

 

 当時の在沖米空軍司令官スミス少将は、沖縄を治めていたブース高等弁務官に対し、ケロイドと反米感情の高まりを関連付けて、次のような手紙を書いていたのだ。

 

「より深刻な問題がある。半永久的にケロイドが残る被害者たちは、琉球列島における米軍統治の結果、被害が生じたと言うだろう。被害者の怒りは、ケロイドの酷さに比例して増幅するだろう」

 

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大やけどをした玉城さんの右手(1961年の医療報告書より)

 

 事故直後、負傷者が運びこまれた米陸軍病院は、救急治療は施すが、それ以上は自分たちの責任の範囲を超えるという見方を示していた。しかし、米軍はケロイドが、反米を訴える根拠に使われるのではないかと懸念していたのだ。

 

 米軍は事故から約1年後、米本国や韓国、日本本土の軍医を呼び、本格的なやけど治療に乗り出していた。そして作られたのが、この医療報告書だった。

 

 気になったのは「回復している」という表現が何度も出てくることだ。結果は、賠償金査定の判断材料に使われていた。

 

事故から1年後、やっと動き出した米軍のやけど治療。

 

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世界的にも、過去にも類を見ない大惨事。アメリカ軍の資料には、多くの負傷者が重いやけどに苦しめられる中、事故からおよそ1年経ってようやく、アメリカ軍が本国や韓国、日本本土の軍医を呼び、本格的なやけど治療に乗り出したことが記されていました。しかしそれは空軍司令官が沖縄県民の反米感情の高まりを警戒し、高等弁務官に手紙を書いたことがきっかけでした。

「我々が気づくべき、より深刻な問題がある。半永久的に傷跡が残る被害者たちは、琉球列島におけるアメリカ軍統治の結果から被害が発生したというだろう」

 

晃さんは治療を続けながら、学校に通いました。事故から1年半後に作成された医療報告書にはやけどの痕は徐々に改善していて、1年か1年半後に再検査するが、手術の必要性はないだろうと記されていました。

 

陸上選手として活躍し、体育教師を目指して、大学進学も果たした晃さん。同級生の玉城欣也さんは、こんな会話を覚えています。

玉城欣也さん「小学校5年生の時に、新聞配達をしているんですよ。お母さんのために、家計を助けるためにやっているんだと。やっていると言ったら、うんと言っていた。たまたまいいよったですよ。大変だったあの頃はと。母親が泣いているので忍びないと。自分のことよりも、母親のことを気にしていましたね。母親が泣いて大変だったと」

 

しかし親子が穏やかな生活を取り戻したのも束の間、晃さんは大学卒業目前にこの世を去りました。やけどの後遺症で汗がかけないため、腎臓に負担がかかっている。医師からそう告げられたといいます。最期のときも、一人残される母親のことを気にかけていました。

母のハルさん「(Q.2人で話したの?)うぬが亡くなるというとき、なーひんちょうでーなしていたら、母ちゃんというから、そういうたよ。だからね。ちょうでーなちょうしむたんと言いよったけど。(Q.ハルさんを心配していたの?)とっても母ちゃん思やーだったよ」

 

石川・宮森630会の依頼でアメリカ軍の公文書を翻訳した琉球大学元教授の保坂廣志さんは、アメリカ軍による治療が被害者の立場に立ったものではなかったと指摘します。

 

米軍の陸軍病院としては、子どもたちを治療する予定はないのだとか、あるいは二度目に米国から専門の医者が来るんですけど、これでよくなったとか。子どもたちは何回も何回も大人たちの都合で、病院側の都合によって医療の現場から排除されて、最後に出てきたものが、これ以上治療の必要はありませんという報告書だったわけです。

晃さんに先立たれて44年以上。報告書の存在を話すと、自分の手元に置きたいと言いました。母のハルさん「これ私にあげる?今甥っ子、姪っ子わからないけど、こんなしていたよ、晃はと」

あすで事故から59年。ジェット機事故は過去のことにはなっていません。

Qプラスリポート 宮森小事故から59年 医療報告書が伝える“実相” – QAB NEWS Headline

 

弟を失った兄の想い

弟がそこにいるのに、米軍がバリケードを張っていて入れない。ただただ悔しくて。当時、高校生だった兄。

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事故後、児童の保護者や地域の人が学校に駆けつけた。わが子を探す親の叫び声が飛び交っていた=1959年6月30日

 

 芳武君は明るくやんちゃで家族のアイドル的存在だった。やけどはなかったが、顔に青あざが一つあった。事故当時、ブランコで遊んでいた。「爆風でブランコごと15メートル吹き飛ばされた。トイレの壁にぶつかり亡くなったと聞いた」

 遺体と対面した時、母親は泣き叫び、父親は押し黙った。その後も事故のことを両親が語ることや、家族や近所で話題になることも一切なかった。「皆口をつぐんだ。思い出したくないから」


警察官としての思い

 

 日本復帰前の沖縄で上間さんは琉球警察として警察官の職務についた。タクシー強盗など罪を犯す米兵の逮捕にも携わった。「犯人が本国に帰り、行方が分からなくなることもあった。でたらめだ。日米地位協定も見直さなければならない。いつまでも泣き寝入りではいけない」

 

 ほかの遺族らと同様、上間さんも証言集が出たころから、弟を亡くしたことについて話すようになった。「多くの人に知ってほしい。二度とこのような悲惨な事故を繰り返してほしくない」

 沖国大への米軍ヘリ墜落、普天間第二小への米軍機窓枠落下。米軍機による事故は何度も繰り返される。上間さんは「偉い人は『負担軽減』と言うが逆だ。名護市辺野古に基地が完成したら同様な事故が発生する恐れは十二分にある」と懸念する。「あまりにも基地を沖縄に押し付けている。基地がある限り、いつ何時このような悲惨な事故が発生するかもしれない。やはり基地は縮小、無くしていかないといけないんじゃないですかね」。淡々とした語り口調に、弟を亡くした悲しみ、いまだ沖縄を苦しめる米軍基地への憤りが込められていた。

 

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 子どもたちの登下校の見守り活動をする上間義盛さん=2018年6月、沖縄県うるま市

ブランコごと吹き飛ばされた弟 上間義盛さん - 琉球新報 - 沖縄の新聞、地域のニュース