『軍隊は女性を守らない-沖縄の日本軍慰安所と米軍の性暴力』2012年12月 WAM アクティブ・ミュージアム 女たちの戦争と平和資料館)
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【シリーズ沖縄戦】74年前の今日
1945年4月18日『戦場の女性たち』
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島に基地ができる。
住民たちは、島を守るという兵隊さんのために、一生懸命協力した。
島に大きな基地ができるということは
どういうことなのか。
沖縄戦の縮図といわれる
伊江島の戦い。
73年前の伊江島では、老若男女を問わず、多くの島民が戦闘の前線に投入されたのだが、
若い女性たちは「女子救護隊」に、25歳以上の女性は「婦人協力隊」にいたり、
日本軍の炊事や雑役を任されていた。
琉球新報社から出版された『証言 沖縄戦 戦禍を掘る』には、こう記されている。
『沖縄戦で悲劇の部隊と呼ばれて、あまりにも有名なのが「ひめゆり部隊」。年端もいかない女学生が無残にも戦火に巻き込まれ、短い生涯を閉じた。こうした少女、婦人は県内いたる所にいた。女子救護隊もその一つだ。伊江島でも昭和20年1月に、17歳から24歳までの未婚の女子青年を集めて救護隊が編成された。
女子救護隊はおよそ100人。各中隊、小隊、分隊に2人ずつ配置された。軍の炊事、雑役に当たっていた25歳以上の婦人・婦人協力隊とともに米軍の上陸を迎えた。…救護班とはいいながら、配られたのはヨーチン、ガーゼ、包帯だけで、負傷兵に対する治療にはならない。仕事は砲弾の運搬と、切り込みでキズを負った兵隊を壕内に運び込むことだった』(174頁)
しかし、伊江島の女性たちに求められたのは、それだけではなかった。
日本兵や民間人男性と同様に、米軍陣地への突入をした女子学徒もいた。
大城シゲさん、伊江島女子斬り込み隊の唯一の生き残りになった。
1944年、日本軍は伊江島に飛行場を建設するにあたり、慰安所を設置していたのだ。
battle-of-okinawa.hatenablog.com
日本軍は、慰安婦たちに「救急法」を教育していたうえ、
米軍との戦闘が激しくなると戦闘員として使用した。
ご覧ください。⇩
1945年 4月18日『戦場の女性たち』
neverforget1945.hatenablog.com