1957年5月18日 オリオンビール株式会社の設立 ~ 具志堅宗精 沖縄戦、地獄の摩文仁から生還して

 

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《AIによるカラー処理》From Mr. Donn Cuson's collection: According to Mr. Cuson, the photo was taken by an American teacher at Sukiran Elementary, 1954-55.

具志堅宗精は宮古民政府の知事を退任後、1950年に現在の赤マルソウの前身「具志堅味噌醤油合名会社」を創設した。

 

5月18日はオリオンビール創立記念日

 

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今日の二紙にはオリオンビールの全面広告が。

 

ジー自慢のオリオンビール

三ツ星かざして高々と 

ビールに託したウチナーの 

夢と飲むからおいしいさー

 

 
BEGIN/オジー自慢のオリオンビール

 

ビギンの歌にも歌われる、うちなーの、うちなーによる、うちなーのためのオリオンビール

 

そんなオリオンビールの創業者は

具志堅宗精 (ぐしけんそうせい)。

 

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那覇警察署長や宮古島の知事を歴任ののち退職し、なんと54歳で今も島で愛される醤油メーカー赤マルソウ (1950-) を設立、そして58歳で、現在県内一のシェアを誇るオリオンビール (1954-) を創業した。

 

まさにウチナーの夢とともに生きた人物だ。

 

今日は、そんな県民ビールを飲みながら、その創業者と沖縄戦に想いをはせたいと思う。

 

歴史に「もし」はないと言うが、しかし、この具志堅があの摩文仁でいのちを落としていたら、この県民ビールはこの世に生まれてはいなかったのだから。

 

具志堅は那覇警察署長を務め、島田叡知事や荒井退造警察部長とは、摩文仁まで行動を共にしたと自伝に語られている。

 

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3月15日 - 繁多川の壕に移動

話を1945年に戻そう。

 

3月23日から恐ろしい艦砲射撃が始まった。海には真っ黒になるほどの艦隊が押し寄せてきていた。

 

3月25日

その夜、那覇署は那覇の山の手にある繁多川の壕に移った。

 

 

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繁多川の新壕(ミーゴー), [沖縄県のガマと地下壕]

 

そうしてまず翌日から署長の具志堅がやったことといえば、食料確保だった。彼はいち早く署員に対して、食糧の確保と物資の「収集」を命じた。

 

洞窟にもぐると、具志堅宗精那覇署長(戦後、オリオンビール株式会社会長)はいち早く署員に対して、食糧の確保と物資の収集を命じた。那覇市は十月十日の空襲で焼けてしまったが、火災をまぬかれた武徳殿山号(デパート)の焼け跡(鉄筋コンクリート建て)には、まだ大量の米やメリケン粉が残っていた。この米やメリケン粉は、そのまま放っておけば焼夷弾で焼かれるか、艦砲弾で飛散するか、いずれにしても消失してしまうだけであった。

 

二十六日、洞窟へ移動したその夜のこと、署長はその米やメリケン粉を、壕に運搬するように命じた。署員は一同「署長は本気だろうか?」と怪訝な顔を見合わせた。洞窟のある繁多川と那覇市は、わずか二キロの道程ではあるが、艦砲弾の一番激しい地点で、運搬作業は命がけの仕事になるはずであった。しかし、いますぐ運んでおかなければ、時機を失い、食糧に窮することは明らかである。若い元気な巡査部長たちが、すぐ立ち上がったのがきっかけになり、六十人ぐらいの署員が一団となって洞窟を飛び出していった。どこから見つけてきたのか、二台のトラックと数台の荷馬車で運搬が始まった。だれもが頭から粉をかぶって真っ白になった。具志堅署長もわたくしも、へとへとになるまで食糧をトラックや荷馬車から墓へ運び込んだ。洞窟の近くには、亀甲墓がいくつか並んでいたので、倉庫の心配はなかった。

 

墓が倉庫になるとは、ちょっと奇異に聞こえるかも知れないが、沖縄の墓は独特な構造で、文献によると、型には亀甲墓と破風墓がある。亀甲墓は外形が亀の甲を伏せたようであり、破風墓も外形からの呼称であるが、内部構造は横穴式にくりぬき、間口、奥行きともに数間の広さにとり、内部を平らにしたものと、石と、しっくいで平地に築造されたものとがある。いずれも内部は広く、大きなものは、六尺棒を縦横に振って棒術の演武さえ出来る広さである。要するに沖縄の墓は、しっくいと石でぬりかためられているので、トーチカ陣地の役目も果たすほど堅牢なものなのである。その墓が、至るところにあるので、住民のためには格好の避難壕にもなっていた。運搬作業は深夜までつづいた。そして二つの墓にを、一つの墓にメリケン粉をぎっしり詰め込んだ。翌日から、お握りの大きさが二倍になり、みんなほくほくだった。同じ壕にいた真和志村役場職員や、付近の壕の避難民にも分けてやった。

 

山形屋支店長の西さんは感激して、山形屋品物の寄贈を申し出た。十・十空襲で焼けた山形屋は、その後、町はずれの松尾にバラック建ての店を開き、品物はみなそこに置いてあった。署員は、爆風でよろけながら、山形屋からふとん、被服類、カンづめ、その他の日用品を運んで墓に納めた。翌日は全署員にタオル、石けん、歯みがき粉、歯ブラシ、チリ紙などが配給された。知事室と署長室には、立派なカーテンがかけられた。これに味をしめて、物資収集隊が組織された。隊長に巡査部長の玉代勢正昭氏(戦後、琉球警察警視)、隊員には元気のいい若い巡査十数人がなった。物資収集隊は、明け方と夕暮れ時を利用して機敏に立ち回った。明け方と夕暮れは、米軍の休み時間で、空襲も艦砲もなかったのである。

 

貴重な物資が手にはいったときは、大戦果でもあげたように得意になった。収集隊はある日、たばこの大戦果をあげた。専売局の役人たちが、隠し場所を教えてくれたからである。久し振りに壕内に紫煙がただよった。警察担当の大山、稲嶺両新聞記者も、署員と同じように配給を受けて大喜びであった。またある日は、泡盛の大戦果に大いに士気があがり、一石(百八十リットル)入りの大きなカメを、二個も壕内にすえるようになった。これは米軍上陸後の四月中旬のことであるが、近くの部隊の兵隊たちが斬り込みに行くと言っては飯盒に詰めて出ていったものだが、果たして斬り込みに出たのかどうかわからなかった。署長は来訪者があると、自慢しながらひしゃくでくんで、ごちそうするのだった。特設警備隊の小隊長・当間重民少尉や、防衛隊員の池宮秀意氏(戦後、琉球新報社長)なども、おみやげを飯盒に詰めて帰った。

 

こんなふうに那覇署は、物資が豊富で景気がよかったが、警察部は頭でっかちで幹部が多く、戦場を駆け回る若い巡査の数が少ないうえに手回しが悪く、たちまち食糧に窮してしまい、那覇署に援助を求めてきた。警察部の各課や付近の避難民の求めに応じ、分けた米、メリケン粉の量も決して少なくはなかった。警察部は食糧だけでなく、防空壕用資材にも窮していた。伊野波警防課長は、那覇署の壕に使用してある板材は警察部のものだから返してほしい、と苦情を持ち込んできたりした。警防課長がいう通り、その資材は警備本部用として武徳殿の広場に積んであったものであった。しかし、負けずぎらいの具志堅署長は「放っておけばただ焼失するものを、署員が至近弾の危険を冒しながら命がけで運搬したものだ。ご苦労さんとお礼を言うかと思えば、文句を言ってくるとは何事だ」と、やり返した。

 

あげくの果てに、具志堅署長と警防課長が口論を始め、とうとう島田知事に仲介を持ち込んだところ、知事は「戦場では手の早いのが勝ちだ。ただし残った資材は、警察部に使用させるように」と、さばけた裁断を下したので、あとはまるく納まってほっとしたものである。

山川泰邦氏『秘録・沖縄戦』(1969年)

 

生きるためには、まず食べ物だ。

焼かれるよりも、先に探してもってこい ! そんな署長のおかげで那覇署はかなりの「戦果」をあげた。 

 

したたかに、生きるための手段を考え、人脈を作り、すぐさま行動に移す。

 

いかにも具志堅らしいエピソードである。

 

彼は知っていたのだ。食べ物と酒は人と人をつなぎ、どんなつらい時も人々を支えるということを。

 

 

4月4日には、首里の壕にいた島田知事を具志堅ら那覇署職員が避難していた繁多川の壕によびよせ、知事は4月25日までそこに留まった。

 

島田知事と那覇署長の具志堅はよく行動を共にした。

 

那覇署の壕から首里城内の軍司令部壕までは、十数町離れていた。しかもその間は、最も艦砲、迫撃砲、爆撃の激しいところであった。知事はこの道を、具志堅那覇署長を同伴して、たびたび牛島軍司令官との連絡のため往復した。周囲の者が心配してとめると「壕内にばかり閉じこもっていたら、外がこわくなるから、戦場なれするために出るのだ」といって、重要な連絡にはほとんど知事自ら出かけた。

山川泰邦氏『秘録・沖縄戦』(1969年)

 

4月25日 - 県庁・警察部壕「しっぽうじぬがま」

4月25日には、島田知事と荒井警察部長の一行は600メートル先の完成した県庁・警察部壕「しっぽうじぬがま」に移った。

 

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県庁壕(しっぽうじぬガマ) No.38,沖縄県のガマと地下壕(防空壕)

 

5月24日 - 摩文仁に南下、轟の壕

5月24日には長参謀長から摩文仁への移転がつげられ、翌25日未明にその地へと向かう。那覇署の具志堅ら約70名もそれに同行したのではないかと思われる。最終地の伊敷の壕へは5月29日頃にたどりついた。

 

伊敷の轟壕(トドロンガマ・トルルシガマ・トロドンガマ)

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沖縄県庁最後の地と言われる避難壕として利用された糸満市伊敷の壕☆|沖縄放浪日記

 

5月29日

日本軍は、突貫の基地建設やら食料供出に住民を総動員で協力させておきながら、自分たちの作戦が失敗に終わるたびに県民がスパイをしてるなどと言い始めた。それが日本軍によるスパイ狩りのような残虐な住民虐殺を数々引き起こす要因となった。

 

実は、「沖縄人はスパイだ」という陰謀論については、沖縄守備隊第32軍の参謀ら自身が傾倒していたものだった。

 

沖縄守備隊第32軍は、秘匿壕の壊滅、総攻撃計画の失敗など、引き続く戦況悪化の責任を沖縄人に転嫁するように、根深い沖縄人スパイ論を抱えていた。

 

 

 

具志堅は語る。与座の壕で、日本軍の要請で警察署長会議があったとき、軍の参謀が「沖縄人はほとんどがスパイだ」と発言したことに対し、具志堅は猛然と意見する。

 

時の那覇警察署長具志堅宗精氏の話──。五月二十九日午後六時ごろ、高嶺村与座(現・糸満市与座)の山部隊司令部で、軍の要請で警察署長会議を開いたことがあった。会議前の雑談のときにある参謀が「沖縄人はほとんどがスパイだ。毎日米軍のトラックに乗って、米兵たちと行動をともにしている。実にけしからん」と、沖縄の人を非難した。列席の警察署長たちは、しゅんとしてだまりこんだ。島田知事も不快な顔をしてそっぽを向いた。たまりかねた具志堅氏が、「沖縄出身の兵隊も、前線で勇敢に戦っているじゃありませんか!捕虜の身で、米軍に逆らうこともできず、生きるためにやむなく従っているのです」と、不満をぶちまけたことがあると、具志堅氏は話している。

山川泰邦氏『秘録・沖縄戦』(1969年)

 

総動員で協力させられ、日本軍のせいで県民が米軍捕虜となっているというのに、スパイとはなにごとか。

住民が直面させられている戦争と死と飢えに対しての日本軍の責任や苦しみを片鱗も感じてさえいない、エゴイズムに満ちた日本軍の参謀の姿がここにあった。

 

 

6月9日

この日、この夜

島田知事は警察警備隊の解散を命じる。

那覇警察署副所長であった山川泰邦氏の『秘録・沖縄戦』には、以下のように記されているが、

 

沖縄の南端へ追いつめられた人々は、みな同じように飢えに苦しんだ。弾雨にさらされながら、芋を掘り、豆をとってほおばった。こうなってはもう団体行動など、思いもよらなくなっていた。島田知事はこの惨状を見ると、六月九日夜、警察警備隊の解散を命じた。

具志堅那覇署長をはじめ警察幹部は、最後まで知事と行動を共にしたいと随行を嘆願したが、許されなかった。

山川泰邦氏『秘録・沖縄戦』(1969年)

 

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山川泰邦。1960年代、立法院議員時代。

 

しかし那覇警察署長、具志堅宗精の自伝には、まったく異なることが書かれている。
 

那覇署員約70名を率いて自らも伊敷の壕に避難していた具志堅は、島田知事と荒井部長に直談判して、那覇署の警察部隊の解散許可をとりつけたというのだ。

 

もうここまで落ち延びたのであれば、警察官のやるべき事は何もない。選択は3つ、降伏するか、食料もなく座して死ぬか、敵中を突破して北部に逃げるか!

  

摩文仁の地で死を待つよりも

「生きること」を選択した。

 

具志堅は6月10日、数名の那覇署員を引きつれ伊敷の壕を出発。北に向かってひたすら歩く。生きるために。

 

そしてどうやらその数日後、那覇のあたりでアメリカ兵に見つかったようである。

 

拳銃を自分に向けて引き金を引いたが、それが不発弾で命をつなぎ、アメリカ軍の捕虜となった。そして知念半島の収容所で戦後を迎える。

 

一方で摩文仁に残った島田知事や荒井部長は、

6月25日、摩文仁にて消息を絶つ。

 

イクサで死ぬより、生きることを選んだ男。

具志堅宗精。

 

ウチナーの、夢とともに飲むから、

オリオンはおいしい。

 

1957年5月18日 - 沖縄ビール創設

 

1957年5月18日 オリオンビール(沖縄ビール)株式会社設立 

沖縄県公文書館

 オリオンビールの前身にあたる沖縄ビール株式会社は、米国統治下の1957年(昭和32)5月18日に設立されました。
 
 1950年代の沖縄は、朝鮮戦争の特需と、軍事基地建設などの基地収入、スクラップブームなどの影響で好景気を迎えていました。それにともない、住民の生活水準も向上し、ビールや洋酒などの嗜好飲料の輸入も増加しました。 しかし、この好況は軍工事などによる一時的なものであることから、琉球政府は「経済振興第一次5ヵ年計画」を策定し、輸出入不均衡の是正や生産業の振興を推進していました。
 
 このような状況の中、宮古群島政府知事を経て、実業界入りしていた具志堅宗精氏は、沖縄の社会経済復興には第2次産業を興すべきであるという志から、沖縄初となるビール会社を創立しました。
 
 ビール作りには、良質の水が必要となるため、名水で有名な名護に工場を建設することを決定しました。水路確保のために名護農業試験場の敷地が最適とみなされ、琉球政府に分譲を要請したところ、「既設政府の土地を削減する必要は認められない」との理由で申請が却下され、政府有地分譲は断念されました。・・・
 
 ビールの名称は、一般公募により決定しました。
 1957年(昭和32)11月1日朝刊に募集広告が掲載され、「オリオン座は南の星であり沖縄のイメージにマッチしていること、また星は人々の夢や憧れを象徴する」ことを選定理由として、「オリオンビール」という名称が採用されました。1959年(昭和34)6月には、会社名も「オリオンビール株式会社」に改められました。

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《AIによるカラー処理》
名護のオリオンビール工場を訪れるブース高等弁務官 1959年5月26日 【0000112087/39-09-1】

オリオンビールは1959年(昭和34)5月17日に販売されました。発売から間もない頃に工場を視察したブース高等弁務官の姿がUSCAR広報局写真資料に記録されています。

 

名護のオリオンビール工場は工場見学を行っており、ドラフトも、ラウンジで飲める。

 

ウチナーの、夢とともに飲むから、

オリオンはおいしい。

 

会社沿革 - オリオンビール

 

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