1955年7月19日、奪われた伊佐浜「銃剣とブルドーザー」~ たちあがった女性たち ~

 

伊佐浜ターブックヮの戦後

「沖縄一の美田」とよばれた伊佐浜のくらし。

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

上の写真。ヤマガーマーチと北谷ターブックヮ 奥に見えるのが伊佐浜集落の位置。米軍上陸後の1945年4月6日に撮影されているため、北谷に隣接する集落もこの時点で大きく破壊されていると思われる。

宜野湾市北谷町の境に位置する伊佐浜は、豊かな水田が広がる「伊佐浜ないしは北谷ターブックヮ」と呼ばれる一帯にあり、宜野湾村でも有数のコメどころでした。よい稲が育つ「苗代田 (なーしるだー) も多く、苗を買い求めに来る人が絶えませんでした。

伊佐浜の土地闘争 - 宜野湾市 pdf

人々は、沖縄戦を生きのび、長い収容所生活から解放され、やっとなんとか伊佐浜での生活を立て直そうとしたばかりだった。廃材をあつめて家を建て、荒れた農地にひとつひとつ手を入れていった。

宜野湾への帰村を許されて初めて、本島南部で捕虜になりハワイから戻った父と再会。普天間収容所 (野嵩収容所か) の大きな黒いテントから2~3カ月ほど田んぼに通い、親子でゼロから耕し直した。夜間に収容所を出ると米軍憲兵 (MP) に捕まるため、作業ができたのは昼間だけだったという。

沖縄戦で荒れ果てた美田 やっと復活させたのに (沖縄タイムス) - 歴史の記録

そんなとき・・・。

 

米軍の強制接収

1954年7月14日の植え付け禁止令

1954年7月14日、流行性脳炎を媒介する蚊の発生を防ぐという表向きの理由で、米国民政府は伊佐浜一帯に稲の植え付けを「禁止」する。8月3日には、ⒶからⒸ地区の接収と、代替地として海を埋め立て、①を住宅地区に、➁を農地にするという。面積も少なければ、農業や人々の暮らしを海の中に放り出すような、いったいこんな話があるだろうか。しかし、この代替地すら米軍は後に却下する。

①の面積は約1,300 坪(記事中では1, 500坪)と土地が狭小なうえに、東シナ海に面しているため台風の浸水被害もはなはだしく、くわえて引用文中にあるとおり、地代も発生することから、住民は不満をいだいていた(『琉球新報』1955 年 7 月 12 日)。

加藤政洋・河角直美・前田一馬「伊佐浜・インヌミ・照屋 ―基地都市コザのミッシング・リンクを求めて―」pdf のマップに着色》

 

薄赤の地域が広大な「キャンプ瑞慶覧」の南側と「ハンビー飛行場」。また南側には「普天間基地」。a-b-c が強制接収された伊佐浜の土地。

 

 

銃剣とブルドーザー: 当時、瑞慶覧や普天間など多くの住民が土地を奪われ、帰る場所を奪われただけではない、1953年4月、米国民政府は「土地収用令」を公布して、新たな土地の強制接収に乗り出していた。すでに真和志村、読谷村小禄村など、次々と土地を人々から奪っていた。

米国民政府の強硬な態度に、村側が争点を保障条件へと移していくなかで、接収中
止を訴える伊佐浜住民は徐々に孤立していきました。やがて伊佐浜住民は不本意ながら妥協へと追い込まれ、… 立ち退きを承諾。直ちに軍は「円満解決」を発表しました。

宜野湾市史だより 2006年5月31日》

 

女たちが立ちあがる

しかし、そんな男たちの「妥協」に、女たちが立ち上がる。

村長の説得もあって、伊佐浜部落の代表はその条件を受け入れようとしていた。話し合いは男のみで行われ、女たちは蚊帳の外だった。それを聞いて「もはや男たちに任せておけない」と立ち上がった女たちのリーダーが田里ナエさんだった。村には戦争で夫を亡くした未亡人も多く、彼女たちにとって土地を取られることは死活問題だった。

ナエさんは女性約20人とともに琉球政府の主席に直訴を行う。「農地一つないところへ移動しては子供達の養育はできない。現在の私達の気持ちは死刑台にのせられ時間を待っているようなものだ」(『沖縄タイムス』55年1月31日夕刊)と涙ながらに訴えた。嘆願書の提出に加え、村の中で演説もぶった。それらの運動は『沖縄タイムス』や『琉球新報』に取り上げられ、全沖縄で話題となった。

ニッケイ新聞「男たちに任せておけない  ~ 銃剣とブルドーザー ~ 米軍に美田奪われた伊佐浜移民」(2018年3月14日) - Battle of Okinawa

 

《AIカラー》軍用接収地 宜野湾伊佐浜 「金は一年土地は万年」の幟 1955年 7月

 写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

 

直訴した女性の言葉

金は一年、土地は万年というとおり、私たちは保障なんか問題にしておりません。土地は汲んでも汲んでもつきない泉です。土地がとりあげられたら、わたしたちは死ぬのです。

宜野湾市史だより 2006年5月31日》

 

3月11日朝、ブルドーザーを阻止する

女性たちが立ち上がった伊佐浜の土地接収は、「円満解決」から紛糾、米軍が本体を表し始める。3月11日の早朝、ブルトーザーがA地区だけではなくB地区まで入り込む。

部落民の強い反対で紛糾をつづけていた宜野湾村伊佐浜部落の軍用地接収は十一日あさ、8時すぎ、武装米兵30余名の厳重な警戒の下に重機などによる穴掘り作業が開始され、… けさ8時過ぎA地区から南に約200米の地点にあるB地区に軍の作業班が乗り込み、軍機などによる穴掘作業が開始され、主婦代表が直ちに工事の中止方を折衝したが聞き入れられず作業は続行された。

部落では警鐘を乱打、婦女子も合わせて百数十名の地主たちが現場に群り … 通訳を介して押し問答が交されたが部落民数名は重機の下に座り込み、作業は大きな危険を伴つたので中止された。

沖縄タイムス』1955 年 3 月 11 日夕刊

 

ブルドーザーで破壊された人々の暮らし

7月19日、伊佐浜に「進軍」した米軍

一年におよぶ住民の抵抗は、ブルトーザーによって敷き潰される。

午前4時半、突如部落東方で杭を打ち始める音に気づいた部落民は鐘を打つて一号
線にとび出した。午前5時、ブルトーザー八台が一号線を部落向けに進行して来た。ブル一台ずつにSP (沖縄人特警隊員二名) が武装で護衛しながら一号線に並び、阻止しようとして道路に出た部落民を米兵約三十名で追い返えしブルは耕地に入り込んで作業を開始した、一方一号線から伊佐三差路更に普天間に通ずる十三万坪の土地は沖縄人労務者が米兵の指示で金網をはり巡らした。アツと言う間の出来ごとだけに部落にとじ込められた人々は出られず、外に出た部落民も中に入れぬしや断状態におかれた〔。〕午前七時数十名の作業員が田圃に入つてスコツプでアゼ道を掘りかえし、一方ブルとグレイダー十余台が東側と西側の原野の地均しをはじめたズラリ並んだ数十台の米車両と武装兵監視の中に作業は続行、午前十時遂に部落北端の当間商店(トタン葺十二、三坪)が米兵の手でこわされ中の荷物も米兵の手で梱包された。

沖縄タイムス』1955年7月19日夕刊

米軍の浚渫船が海岸に停泊しリーフの海水土砂を伊佐浜の美田に流し込んだ

1955年7月19日の早朝、米軍は伊佐浜の周囲にバリケードを張り巡らし、ブルドーザーやクレーン車で家屋を取り壊し、サルベージ船で北谷沖から土砂をすくいあげて伊佐浜の美田を埋めました。

伊佐浜の土地闘争 - 宜野湾市 pdf

壊された家の資材を運び出す作業員(1955年、宜野湾市立博物館提供) 

沖縄戦で荒れ果てた美田 やっと復活させたのに (沖縄タイムス) - 歴史の記録

米軍がどのように土地を強制接収したか。

この際に、72 歳の男性が米兵に殴られ失神するなどの事態も発生しました。その光景を、伊佐浜のある女性が次にように書き記しています。「無力、無抵抗のわれわれ農民にたいして、アメリカ軍がおこなった暴力行為は、われわれは永久に忘れることができません。銃剣を突きつけて、うろたえる女子供を、田んぼにとってなげる沖縄戦さながらの光景でございました。『望郷』より

宜野湾市「市史だより」 pdf

犬コロのように追い払われた。

抵抗すると銃尾で叩かれ突き飛ばされた。新聞記者が写真を撮ろうとしたが、米兵がフィルムを没収した。カメラごと奪い取られた記者もいた。当時23歳の澤岻さんも必死の抵抗を試みたが、数人の米兵に抑えられなすすべもなかった。

澤岻さんはここまで話を進めると少しの沈黙のあと、「四等国民は本当につらいものです」とつぶやいた。戦前の日本では琉球人、アイヌ人、朝鮮人、台湾人などを二等、三等国民と呼び、差別していたと言われる。

記者が「四等国民ですか」と繰り返すと、澤岻さんは「だってそうでしょう」と言葉を強めて返した。「話すら聞いてもらえない。私たちは人間扱いされていなかった。三等国民じゃない。四等国民だよ」とうつむきがちに言った。

ニッケイ新聞「犬コロのように追い払われた」(2018年3月14日) - Battle of Okinawa

久手堅憲俊 撮影 土地接収直後の住民。

土地闘争/伊佐浜土地接収直後 : 那覇市歴史博物館

 

再びすべてを奪われる。

住む場所を奪われて、インヌミヤードゥイへ

1945年、沖縄戦と占領に家を奪われ、そして、1955年、また再び米軍に根こそぎ奪われた。しかも移住先もないまま放り出されたのだ。

23世帯が、1946年に米軍が海外引揚民収容のために設営したインヌミに住むことを余儀なくされるが、そこは伊佐浜とは似ても似つかない荒れ地であった。

住む家と田畑を失った住民は大山小学校での仮住まいを余儀なくされ、約一か月の避難生活後、23世帯が沖縄市高原インヌミヤードゥイへ移住しました。小石の大い荒れた土地での新生活となり、追い打ちをかけるように台風被害や生活援助の打ち切りがあり、度重なる苦労に南米へ移住した住民もいました。

伊佐浜の土地闘争 - 宜野湾市 pdf

大山小学校に避難した伊佐浜住民と山積みの芋(1955年、宜野湾市立博物館提供)

沖縄戦で荒れ果てた美田 やっと復活させたのに (沖縄タイムス) - 歴史の記録

 

ブラジル・ボリビアへ渡った伊佐浜の家族

「移動資金も手持ち資金も使い尽くした」

「生産が上がらないので食糧は全部買っている」

「将来の見通しがつかないので、籍はまだ宜野湾に置いてある」-。

インヌミに移住した23世帯は困窮した。一方、屋敷の接収を免れた伊佐浜住民は田畑を奪われて失業状態。車洗いなどの日雇いの仕事でしのぐしかなかった。

この先、どうすればいいのか-。援助を求め続ける住民を、琉球政府(当時)は農業移民としてブラジルへ優先的に送り出すと決めた。澤岻さんは「簡単じゃないですよ。家族の問題もある」と指摘する。自身は中学3年の夏休み、きょうだいを残して父母と3人でブラジルに渡った。移民するかどうか意見がまとまらず、離婚した人もいた。

移民先のブラジルの奥地にアリの大群 稲作で暮らせず帰国 米軍に美田を奪われ「無念」 (沖縄タイムス) - 歴史の記録

 

ブラジル、サンパウロ拠点の日本語新聞「ニッケイ新聞」の素晴らしい取材記事。

 

キャンプ瑞慶覧 (キャンプ・フォスター) はなぜ拡大したのか

「銃剣とブルドーザー」の背後にいた米軍と日本政府

キャンプ瑞慶覧は、沖縄市宜野湾市北谷町北中城村を占有する広大な米軍基地。それでなくとも基地の密集する中部に、1955年、さらにこうして戦後の再強制接収で、沖縄戦を生きのびなんとか生活を再建しようとしたばかりの人々の土地を踏みつぶして拡大する。なぜなのか。

 

この時期、日本では米軍基地が地元の強い反対運動で撤退を余儀なくされ、逆に米軍の占領下にある沖縄に押しつけられる。

 

キャンプ・サカイからの移駐

関西には、京丹後の0.035km2の通信基地をのぞき、米軍基地は存在しない。

2014年、京都府京丹後に米陸軍のレーダー通信基地「経ヶ岬通信所」が地元の反対を押し切り建設された。それまで、関西には米軍基地は一つもなかった

関西では、米軍基地擁護の保守政治家があまた並び、保守系団体が愛国をあおり、偽情報だらけの恵隆之介らを頻繁に招いては沖縄ヘイトを掻き立てる番組が多く発信されているにもかかわらず、肝心の米軍基地は、関西には一つもなかったのだ。

 

しかし、戦後はそこにも多くの米軍基地が立ち並んだ。その一つがキャンプ・サカイ (現・大阪市立大学やその周辺の広大な土地を接収) である。

関西とキャンプ・サカイを襲った台風を記録した米陸軍の映像。ここに記録されているのがキャンプ・サカイである。

 

第9海兵連隊司令本部に関して言えば、まず岐阜基地から、大阪のサカイ基地 (Camp Sakai) に移る。1955年7月5日、関西から追い出された海兵隊は、いったん沖縄の登川基地 (Camp Napunja) に移転する。あわてて日本を追い出され、登川ではなんの受け入れ準備もできていない状態だった。そうして、翌年1956年1月、キャンプ瑞慶覧に移転した。

 

このタイムラインを銃剣とブルドーザーによる伊佐浜強制接収のタイムラインと重ね合わせてほしい。明らかに伊佐浜の恐るべき占領は、本土の米軍基地撤退に間に合わせるように強引になされたものだった。

 

しかもその撤退は、日本政府との合意に基づいていた。

7月5日に第9海兵連隊が1953年7月5日にキャンプ・ナプンジャに基地を移転した。その同じ月、第3海兵師団指令本部も沖縄 (註・キャンプ・コートニー) に移された。こうした動きは、アメリカの地上部隊を撤退させる日本との合意にもとづいたものだった。
— Strobridge, Truman R, A brief history of the 9th Marines, Washington, D.C. : Historical Branch, G-3 Division, Headquarters, U.S. Marine Corps (1961), p. 16.

 

こうして、この時期、日本政府は、独立を回復するため、またも再び沖縄を「捨て石」として米軍に差し出しただけではない。日本が撤退させた米軍基地まで占領下の沖縄に押しつけたのである。

 

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宜野湾市のコリドー地区は許返還については、また別の項目でまとめていきたい。 

北谷町「まちづくりの手引き」pdf

 

基地の返還後は、跡地のどこかに「伊佐浜」の呼び名を付けてほしいと澤岻さんは望む。「当時の人はみんな無念なんですよ。そこには人が住んでいたわけですから、覚えていてほしいんです」。

移民先のブラジルの奥地にアリの大群 稲作で暮らせず帰国 米軍に美田を奪われ「無念」 (沖縄タイムス) - 歴史の記録