伊平屋村の歴史、宜野湾市の歴史

 

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新たに占領した伊平屋島の我喜屋集落で、病原菌の巣窟である藁葺き家を、高速火炎放射器で焼き払う。

Iheya Shima, fast working flame throwers destroy germ infested grass houses in the village of Gakiya on the newly covered island of Iheya Shima.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

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【シリーズ沖縄戦】74年前の今日

1945年 6月3日 『米軍、伊平屋島に上陸』
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74年前の今日、

沖縄本島西北に位置する伊平屋島に米軍が上陸した。

 

空から海から砲撃し、

ある程度のダメージを与えた上で上陸した。

 

海兵隊の戦史、Victory and Occupation; History of U.S. Marine Corps Operations in World War II によると、米軍が伊平屋島に上陸した理由は、

 

early in May Admiral Turner asked General Buckner to begin a study of outlying islands to determine where long-range radar and fighter director facilities could be installed. Resulting from this study was the decision that Tori, Aguni, Iheya, and Kume Shimas could be captured in that order. (See Map 22.)

米艦艇が特攻機による攻撃により大きな被害を出し続けていることから、特攻機の飛来を察知できる長距離レーダーと戦闘機指揮所が設置できる適切な場所を調査し、その結果、鳥島、粟国、伊平屋、久米島の占領が可能であると決定された。

https://www.ibiblio.org/hyperwar/USMC/V/USMC-V-II-10.html

 

中野学校の人口の少ない伊平屋島で、40名以上の住民が亡くなったのだ。

昭和20(1945)年6月3日の午前に伊平屋島南東沖から米軍の艦砲射撃が始まった。数時間に及ぶ射撃の後、島の中央付近から上陸が始まった。艦砲射撃と機銃掃射で40人余の住民が命を落とした。

総務省|一般戦災死没者の追悼|伊平屋村における戦災の状況(沖縄県)

 

 

名嘉さん『米軍の上陸で伊平屋島では同級生を含め47人が犠牲になった。伊平屋島でも人々が大変な思いをしたことを絵を通じて知ってもらえれば

伊平屋島 米軍上陸 【名嘉範茂】|沖縄戦の絵|沖縄戦|NHK 戦争証言アーカイブス

 

さて、話は変わり、ネットでの近年の沖縄デマと歴史修正主義と同時に、極めて危機的に思っていることがもう一つある。

 

それは、沖縄県の各市町村のウェブサイトにおいて、沖縄戦に関する掲載が少なくなっているということだ。

 

伊平屋村もそのひとつ。

 

伊平屋村の歴史 HP

 

伊平屋村には、沖縄戦中に住民が経験した様々な「歴史」があるはずなのだが、他の自治体と同様、ほんの6行の記載しかない。

 

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伊平屋村ホームページ

  

さて、このトップページからどう歴史のページにアクセスできるだろうか。ヤンバルクイナのようなキャラクターが口をパクパクさせながら「自衛官採用情報」を呼びかけるバナーが目を引くばかりで、

 

その上にある小さな歴史のリンクはほとんど目にとまらない。またそこにアクセスしても6行しか書かれていない。これは人口の少ない自治体だから、で済むことだろうか。

 

もちろん、紙媒体で発刊された村史や沖縄戦史の記録や証言集はあるだろう。が、公式ページが観光やビジネス案内ばかりで、歴史や文化の紹介がほとんどないのは、歴史のある島にしてはおかしいではないか。

 

追加情報

2011年での伊平屋村の歴史ホームページのアーカイヴをここに記す。沖縄戦伊平屋島の犠牲について6行の記載があるだけ、まだましだった。

 

2011年のアーカイヴ版

昭和16年12月8日大東亜戦争勃発。物資統制令により、米作農家に増産体制の強化と割当配給制、強制供出米を徴収され(昭和20年終戦時まで続く)、流通機関も絶え苦難な戦争中の生活を余儀なくされ、戦況はますます激化の一途をたどっていました。 昭和19年には、本村も始めて空襲され田名集落で数棟焼失、同年6月3日突如米軍機動部隊が当村に上陸し、空中射撃や艦砲射撃により、40余名の村民の犠牲者と全て焼土に化し米軍占領統治となり、米軍使役労務に強制従事させられる。 同年11月22日米軍が、伊平屋から引き揚げたことで村民収容解除され、田名より各集落へ復帰し戦後の混乱期の生活が始ました。 

http://www.vill.iheya.okinawa.jp/detail.jsp?id=12547&menuid=4251&funcid=1

 

 現在の伊平屋村の歴史ホームページ

過去の「比較的」まともな歴史ページをすべて削除し、

伊是名島の「歴史と神話」という小さな項目にまとめられる。

 

歴史と神話、という項目にありながら、

神話ばかりを記載する。

沖縄本島を統一し、第一尚氏王統を作り上げた尚巴志。その祖先は、伊平屋島に暮らした屋蔵大主という人物。屋蔵大主は、片隈神社のある付近に居を構えていたと伝えられています。また南の賀陽山山頂には城も築かれ、その間には、飛脚(ひたて)森と呼ばれる、連絡・防衛拠点もあります。こうしたことから、屋蔵大主が伊平屋島を拠点に大きな勢力を伸ばし、琉球王国の成立に深く関わっていたことが想像できます。また、伊平屋島には、古事記に記された天の岩戸ともされる「クマヤ洞窟」があり、遥か日本草創神話とのかかわりも唱えられています。

歴史民俗資料館 - 伊平屋村ホームページ

 

ファクトとスペキュレーションの違いは、基本的なリテラシーのスキルであるが、神話ばかりを記載するから、「と伝えられ」「想像できます」「唱えられ」ています、という文言に終始している。これではとても歴史の項目とは言えない。

 

なぜ、たかが10年の年月で、これほど村公式の歴史のホームページが書き換えられるのか。

 

 宜野湾市の歴史 HP

では、人口10万人近い宜野湾市はどうだろうか。

 

さてここから、沖縄戦関連の宜野湾市のページに行きつくことができるか、みなさんもチャレンジしてみてほしい。

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宜野湾市公式ホームページ

 

あれだけ、普天間は田んぼだった、基地が先で、住民は後から基地の周りに住み始めた、住民の生活は基地に依存している、などというフェイクニュースが流されているにもかかわらず、

 

宜野湾市の公式ページのトップから、宜野湾市の歴史についてのページにたどり着くのは極めて困難である。また、たどり着いたとしても、うまく表示されない雑なつくりである。

 

さて宜野湾市のページから「宜野湾市の歴史のページ」にたどり着くことができただろうか。これが宜野湾市の歴史のページである。これでは情報提供が少なすぎる以前に、まともに目を通すこともできない。読めますか、これ。宜野湾市の歴史たった1ページもちゃんと作れていない状態である。たった一人でもウェブ担当者がいれば、こんな仕事にはならないはずだが !?

 

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宜野湾市の歴史

 

 

人口10万の宜野湾市で、これほどまでに市当局が市の歴史を軽んじているのを見ると、絶望感すらわいてくる。

  

トップページからのリンクで歴史を探すと、新着情報も一つもなく、つまり、宜野湾市に「歴史」は「ありません」ということになる。

 

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歴史 | 宜野湾市公式ホームページ

 

さらに「もっと見る」をクリックしても・・・

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グローバルナビ用記事一覧ページ | 宜野湾市公式ホームページ

 

少なくとも三年前からこの状態だ。かつて市のページに、宜野湾の戦跡トーチカなどの紹介がかろうじてあったはずだが、今は既にそれも見当たらない。いったいどこにあるのか。

 

宜野湾では日本会議の前佐喜眞市長や自民党系の市長が続いたせいか、こうした歴史へのとりくみはほとんどネットの上から見ることができなくなった。

 

ちなみに、読谷村のような町や、広島市長崎市での公式ページを見ればその違いは一目瞭然である。トップページからしっかりと原爆や戦争の記録のページにアクセスできる。

 

広島市 - トップページ

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長崎市ホームページ

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そうして、市としての歴史と平和学習の取り組みがしっかりと伝わるつくりになっていて、子どもたちは、おおやけの市のページをゲートウェイにしてその地域の歴史を学ぶことができる。

 

子どもたちも真偽の怪しいネット情報に惑わされることなく、公式ページから資料に基づいた町の歴史をたどることを学ぶだろう。

 

 

わかりやすく情報を提示する。

地味ではあるが、こういう基本的な仕事ひとつひとつが、公的機関の仕事の一部ではないのか。

 

伊平屋村に限ったことではないが、島と住民が経験した歴史を世界に伝える努力がしっかりと求められてしかるべき。

 

後世に伝える努力を怠れば、「あったものを、なかったこと」にされてしまう。

 

74年前の今日、米軍は伊平屋島に上陸した。米軍の「上陸前」空爆や艦砲射撃では、40名以上の住民が亡くなった。

 

生き残った住民は、一カ所に集められて全員捕虜となり、米軍の監視下に置かれた。

 

島を占領した米軍は、住民の藁葺き家屋を焼き払い、瓦葺きの家は米軍宿舎にした。

 

住民は全身にDDTを浴びせられ、収容所に集められ、ほぼ半年間、労務を強いられた。

 

今やネットで多くの修正主義が拡散されているなか、まず公的な歴史発信がしっかりしていなければ、どのように子どもたちに歴史への扉を示していくというのか。

 

歴史を大切に、というなら、
市町村がまず真剣に取り組むことである。

 

ご覧ください。⇩

1945年 6月3日 『米軍、伊平屋島に上陸』