4月28日『屈辱の日』の屈辱

f:id:neverforget1945:20190428082903p:plain

 

 

1945年4月28日

日本軍は沖縄そのものをまるごとその反対斜面 (reverse slope) 戦術に利用した。

米軍は捕虜二人の結婚式を投降ビラにして空から広くバラまき、若い男女の心を永久に傷つけた。

 

1952年4月28日、『屈辱の日』

この日、

サンフランシスコ講和条約発効により

 

奄美、小笠原、沖縄は米軍に差しだしたまま

本土が「独立」した。

 

本土が勝手に始めた戦争で、

生きた砦としてさんざ捨て石にしたあげく、

 

いざ本土が「独立」となると、

ふたたび沖縄を米軍に差しだしたのだ。

 

2013年4月28日、安倍内閣『主権回復の日』の祝典

 

ところが、

この切り捨て御免はまだまだ続く。

 

その講和条約から61年という中途半端なフシメで、この日を『主権回復の日』として祝うべく「閣議決定」し、勝手に決めた首相がいた。

 

三度も沖縄を切り捨てることで、明らかに日本政治の現場から沖縄が排除されていることを沖縄県に知らしめ、

 

またも沖縄から「主権」を奪った。

 

さらに、その4月28日の「主権回復・国際社会復帰を記念する式典」で、「天皇陛下万歳」をするのはやめようと決まっていたにもかかわらず、突発的に会場の男性が「天皇陛下万歳」と叫びだし、君が代の後に、一斉に万歳三唱がはしまった。

 

youtu.be

 

f:id:neverforget1945:20190428074703p:plain

 

会場から野太い声で「天皇陛下万歳」と怒鳴る声が響き、そのあと安倍総理を含め全員が万歳三唱したが、それは式典には「まったく予定になかったもの」であったという。天皇出席の式典でこのような予定外の暴挙があれば普通はどうだろうか。実に奇妙なことに、安倍総理を含め、すべての参加者が申し合わせたかのように万歳三唱に続いた。

 

その後、式典が終了し退席しようとしたその時、ハプニングが起きた。突然「天皇陛下、万歳」の声がかかり、会場は「万歳」の大声の渦となった。安倍首相も壇上で万歳三唱に加わったが、上皇夫妻の表情は硬く、沈黙したまま会場を後にした。

安倍首相と明仁上皇(上) - 佐藤章|論座 - 朝日新聞社の言論サイト

 

f:id:neverforget1945:20190428075202p:plain

 

奄美も沖縄も切り捨てておいて、

本土だけ主権回復し国際社会に「復帰」したからお祝いだという、

 

この、政治的に未成熟であまりに醜いエゴイズム。これが安倍政権の国家観であり、「主権回復」の中身である。

 

安倍の「主権回復の日」は、

 

この疑似民主主義の日本国に、沖縄の「主権」の余地など存在しないということをあからさまに示して終わった。

 

これが「本土は本土の民主主義」なのか。

 

2016年4月28日、元海兵隊うるま市女性殺人事件

 

f:id:neverforget1945:20190501171159p:plain

 

この日、

うるま市で当時20歳の女性がジョギングに出かけたまま帰らぬ人となった。

 

海兵隊員で軍属だったケネス・ガドソン受刑者に惨殺され、恩納村の雑木林に遺棄されたことがわかったが、

 

ガドソンは犯罪の証拠となるものはすべて基地内に捨てたと自供。つまり明らかに日米地位協定を利用した殺人事件であり、そこから捜査は難航する。

 

ガドソンが後に語ったことは

 

日本で (性犯罪の被害者が被る) 文化的社会的なスティグマのために性犯罪の報告率は低い。そのため、もしかしたら捕まるかもしれないなどということを怖れてはいなかった、と語った。

 http://ospreyfuanclub.hatenablog.com/entry/2017/02/25/134822

 

2018年10月に無期懲役が確定。

 

そして、問われる今

 

きょう「4・28」 沖縄「屈辱の日」を知ってますか?

琉球新報 

2016年4月28日 05:04

 1952年4月28日にサンフランシスコ講和条約が発効してから28日で64年となった。敗戦後、連合国軍の占領下にあった日本は条約発効で独立を果たしたが、沖縄や奄美は日本から切り離された。

 沖縄が日本復帰するまで米施政権下にあった27年間、本土から沖縄へ基地が移転。日本国憲法が適用されず、人権が蹂躙(じゅうりん)された。過重な基地負担など現在の沖縄差別の源流ともなったこの日は「屈辱の日」と呼ばれる。

 日本政府は52年7月、米国民政府との連絡を担う那覇日本政府南方連絡事務所(南連)を設置したが、沖縄の住民を「琉球住民」と定義し、沖縄在住で日本本土の国籍を持つ「日本人」とは区別していた。南連の沖縄政策は、「日本人」は保護の対象だが「琉球住民」は対象外としており、識者は「沖縄差別の源流ではないか」と指摘している。

 2013年4月28日には、安倍晋三首相が主権回復の日式典を催し、沖縄からは強い反発の声が上がった。 

 

4.28「屈辱の日」不屈の日として刻みたい

社説 琉球新報

2018年4月29日 06:01

 

 過重な在沖米軍基地負担などに抗議する「4・28県民屈辱の日を忘れない県民集会」が名護市辺野古の米軍キャンプ・シュワブゲート前で開かれた。

 1952年4月28日に発効したサンフランシスコ講和条約第3条によって沖縄は日本から切り離されたことから「屈辱の日」と呼ばれた。

 あれから66年。県民集会で主催者を代表し高良鉄美実行委員長は「私たちの思いが無視された」と指摘した。新基地建設についても「基地を造らせないという思いも無視されている。まさに屈辱が70年続いている」と国の姿勢に抗議した。

 

 「屈辱の日」は、県民が自己決定権を求めて立ち上がった「不屈の日」でもある。戦後沖縄の政治をけん引した3人のエピソードがある。

 

 講和条約の発効を前にした4月1日、琉球大学で開かれた琉球政府発足式典で立法院議員が起立して宣誓した。瀬長亀次郎氏だけは起立せず宣誓文への押印も拒否した。

 

f:id:neverforget1945:20190425183855p:plain

 

 瀬長氏の未発表の原稿によると、最初に示された宣誓文には「米民政府並に琉球住民の信頼にこたえるべく」とあった。有権者に選ばれたにもかかわらず、米国に宣誓する必要はないと考えた。そして「日本国民に対する民族的侮辱であり、日本復帰と平和に対する挑戦状だ」として拒否した。瀬長氏は米統治下で日本復帰運動の先頭に立った。

 

 講和条約が発効する3カ月前の52年1月、当時の沖縄群島政府文教部長の屋良朝苗氏(後の主席、県知事)は全島校長会を開催した。沖縄が日本から切り離される前に、沖縄の進むべき方向を示そうと考えたからだ。校長会は全会一致で「復帰要求決議」を採択した。屋良氏は47~50年の知念高校校長時代から生徒に日本復帰を訴えていた。

 

 以来、屋良氏は全県民的な支持を背景に、粘り強く日米両政府と向き合い、自治権の獲得と施政権返還を求めた。屋良氏は「沖縄問題の解決の可能性は、全国民の沖縄に対する真の理解と好意の度合いがバロメーターになる」と考えていた。県民の直接行動と全国民の理解、この二つがかみ合ったときに事態は前進すると確信した。

 

 対日講和会議が始まる7カ月前の51年2月1日付「沖縄新聞」は、沖縄の新聞として初めて社説で日本復帰論を掲げた。西銘順治氏らが創刊した「沖縄ヘラルド」が「沖縄新聞」に改題するのを機に主張した。西銘氏はこの社説の執筆に立ち会っている。


 この年の4月から西銘氏は仲間と共に日本復帰を求める署名運動に参加した。西銘氏は社大党の結党メンバーで、後に保守勢力のリーダーとして那覇市長、衆院議員、県知事に就任した。

 

 「屈辱の日」を体験した3人に共通するのは、抑圧に決して屈することなく、前途に希望を持ち続けたことではないか。

 

いまも県民の民意を踏み潰し、沖縄を米軍基地に差しだしたまま「主権回復」などありえない。

 

そういう基本的な「主権性」と「民主主義」を理解しないものたちが日本の政治を担っている限り、

 

日本にある「主権」も「民主主義」も

ハリボテでしかない。

 

我々はいまもクリフに立たされている。

 

今日は、それを再認識する日である。

 

f:id:neverforget1945:20200428140355p:plain