普天間基地の下に埋められたもの

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/15-22-1.jpg

第854工兵航空大隊は、普天間の南端を流れる小川の水を排水するため、54インチコルゲート管を第2滑走路を横切るようにして設置した。排出口を支える土台の石材は、地元の建造物のものを使用した。(1945年7月6日撮影)(投稿者注: 上の和訳は、リンク先の原文を基に投稿者が翻訳したもの)

854th Engineer Aviation Battalion laid a 54 inch corrugated pipe across #2 strip at Futema, to carry the water of a small stream that ran at the south end. The stone base for holding the pipe outlet was from a native building.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

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【シリーズ沖縄戦】74年前の今日
1945年7月6日 『軍作業』
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沖縄戦が始まる前、
日本軍は沖縄県民に「軍作業」をさせた。

 

土地を接収し、
すさまじい勢いで沖縄の基地化をすすめた。

 

沖縄県民は、嘉手納、読谷、伊江島、牧港、那覇などの飛行場や滑走路建設に従事したうえ、数多くの壕を手作業で掘ることも命じられた。

 

1945年6月下旬になると、

 

今度は米軍が基地建設を加速させ、
収容所にいた沖縄県民に「軍作業」をさせた。

 

米軍のための「軍作業」は、
日本軍の時のように強制的なものではなく、

 

作業に従事した者たちには物資の支給があったため、希望者は多くいた、と、米軍の記録は記している。

 

持つもののほとんどを失い、餓死者も多くでるような収容所生活のなかで、軍作業後に得られるわずかな物資は貴重だったに違いない。

 

特に女性にとっては、頼れるはずの旦那や息子を戦争で失い、または、生き別れになってしまった状況では、

 

生きるため食べていくため、

大粒の汗を流しながら、涙をこらえながら、米軍が必要とした労働を提供したことだろう。

 

74年前の今日、米軍の巨大なローラーが敷き詰める石灰岩の下には、かつて人々の暮らしが、営みがあった。

 

かつてあったはずの立派な建物や屋敷は、今や跡形もなく、かつてあった集落の大きな石組は普天間基地の排水溝の土台に使われた。

 

皮肉なことだが、


本土復帰を経た74年後の今、

沖縄で再び急ピッチで強行されているのは


日本の軍隊の拠点と

アメリカの軍隊の拠点の両方である。

 

いったん大地に基地が作られれば、

土地を喰い荒らし人命を貪り、

 

基地を足場に、更なる基地が拡大していく、

いまも基本、何も変わっていない。

 

ご覧ください。⇩

 

1945年 7月6日 『軍作業』

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