ハワイのウチナーンチュのちむぐくる
1948年9月27日、550頭の豚がうるま市の勝連半島ホワイトビーチに上陸した。ハワイの沖縄系住民が故郷オキナワのために送った豚たちだった。
Courtesy Of Jon Itomura / Shinyei Shimabukuro
沖縄戦 - アグーの危機
人間の戦争は、自然そのものを破壊し、多くの動物たちの命をも奪う。
第2次大戦後、激戦地となった沖縄は、全人口の4分の1もの人々が亡くなり、荒廃をきわめました。もちろん亡くなったのは人だけではありません。沖縄の人々の生活に深く根付き、沖縄料理の主要食材でもある豚も、その数が激減しました。戦前は10万頭もいた豚も、数えられるほどまでに減少。それを聞きつけたのが、ハワイの沖縄系移民の人々です。
戦後 - 米軍占領下の沖縄
1948年。沖縄戦終結から3年がたっていたが、米軍の占領下にある沖縄では、戦争で家族を奪われ、住む家や家財の多くを失い、米軍によって多くの住むべき生きるべき土地を奪われた。貨幣はいったん無効化されたうえで1948年までに4度も切り替えられ*1、多くの人々がカバヤー、テントヤー暮らしを強いられた。
米軍は沖縄の占領に固執したが、しかしその支配は粗雑で一貫せず、米陸軍の公刊史は、この時代を「無関心とネグレクト」と称するほどであった*2 。
「故郷を救え」- 沖縄系ハワイ住民による支援が始まる
沖縄から帰還した比嘉太郎、「フールにウヮーの影なし(豚小屋に豚がいない)」と支援を呼びかける。
比嘉太郎は「郷土沖縄を救おう」と、ハワイに移住していた沖縄県出身者や二世らに呼びかけ、沖縄災民救済運動を発起した県系二世の比嘉太郎。4月21日、援助物質受け入れのため沖縄に向かった。4月25日、嘉手納基地に降り立った比嘉は、かつて祖父母と暮らした沖縄が焦土と化した、変わり果てた姿にショックをうけた。彼は再び従軍し、「んじてぃくみそりよー」(信じて出てきてください) と投降を呼びかける。
【訳】この救援活動は、第二次世界大戦中に米陸軍第100歩兵大隊に所属していたトーマス・タロウ・比嘉によって始められた。比嘉さんはハワイ出身の沖縄二世で、沖縄語を話した。このため、ヨーロッパ戦線に従軍した後、沖縄戦で通訳として志願した。地元の沖縄の民間人の通訳や交流を通じて、彼は沖縄が人道支援を緊急に必要としているということを理解しました。1945年9月にハワイに戻ると、彼はハワイの沖縄系住民に沖縄の状況を伝え、彼らが援助を送るようになった。
沖縄戦災民救難品出荷作業終える。1945年12月15日 於ワイルク昭和青年会館
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豚が海を渡る !
1948年1月15日 - 募金がスタート
【訳】… 持続可能な生計を立てるために生きた豚を沖縄に送るという最初のアイデアを思いついたのは嘉数亀助氏だという。
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戦前、沖縄から多くの移民が定着していたハワイでは、終戦直後から沖縄救済のための組織を結成し、衣類を送るなどの活動に積極的に取り組んでいました。1948年(昭和23)初頭、沖縄の人々の生活に欠かすことのできない豚を送り、繁殖させて復興への力にしてもらおうと、布哇(ハワイ)連合沖縄救済会が募金活動を展開しました。
集まったお金は時価総額でなんと5千万円 !
彼らはさっそく「沖縄救済会」を結成し、募金運動を始めました。「故郷に豚をおくりましょう」と、メロディーに乗せた曲「ウルマ・メロディー」を作り、毎日ラジオで募金を呼びかけたそうです。祖先のふるさと、沖縄を助けようと、集まった募金総額はなんと5万ドル。現在の価値に置き換えると約50万ドル(約5千万円)にもなります。この資金を使い、ネブラスカ州のオマハで550頭の豚を買い付け、オレゴン州ポートランドを経由し、船で沖縄まで運ぶことになりました。
1948年8月31日 - オーウェン号は沖縄へ
船に乗り込み、嵐や機雷の恐怖にも負けず故郷沖縄へ豚を届けたのは写真にある七勇士の県系人でした。彼らが数々の困難をものともせず、母県に豚を届けたのは、荒廃し食糧難で苦しむ古里を助けたい一心からでした。
沖縄に豚を送ったのは、上江洲易男さんと山城義雄さん、渡名喜元美さん、仲間牛吉さん、島袋真栄さん、宮里昌平さん、安慶名良信さん。当時、米本土で豚を購入し、軍船を借用。沖縄に向かう途中、洋上に浮遊する日本軍の機雷や大しけに遭いながら、命懸けで豚を送り届けた。このほかにも北・南米など多くの国々の県系人がさまざまな多量の物資を送り届けた。
三度の大しけで、2ひきの豚が海に流されることもあったが、洋上で生まれた子豚たちもいた。ちいさくてかわいい。
Piglets were born aboard the USS Owen while en route to Okinawa.
Remembering the Pigs from the Sea | Hawai'i Public Radio
1948年9月27日 - 勝連半島に550頭が上陸
ついに豚をのせた軍艦は石川の勝連半島に到着 !
ハワイから送られ、ホワイトビーチに到着し船から降りてくる豚たち =1948年9月
航海は厳しく、嵐で2頭の豚を失いながらも、9月に無事に沖縄に上陸。豚は抽選で沖縄県内全域に平等に分配されました。これにより、沖縄の人々の栄養状態は劇的に改善を見せたと言われています。7勇士は、この事業の成功について、ことさら吹聴することもなかったため、ハワイでもこの話が皆に広く知られることはありませんでした。
【訳】海上で28日間を過ごした後、1948年9月27日、7人は豚を沖縄県うるま市のホワイトビーチに無事届けた。4年間で豚の数は10万頭にまで増加した。
農林水産業: 豚多頭飼育 久志村 豚舎 1964年 3月
【訳】2018年11月29日、沖縄県うるま市の養豚場で子豚を抱く池宮城博さん。戦後のハワイからの人道的努力により、沖縄は国内の豚の頭数を再建することができました。
うるま市の池宮城さんは、父親が約60年前に始めたうるま市の養豚場で約900頭の豚を飼育している。70年前にハワイから7人の勇敢な沖縄移民がとった行動のおかげで、沖縄の豚肉文化は今日とても繁栄しているという。
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歴史をつなぐ
ジョン・イトムラさん写真の発見
私たちが今見る「海を渡った豚たち」の写真はこの時発見されたもの。
【意】ジョン・イトムラさんは、1925年に沖縄県の石川 (現うるま市) からハワイに移住した祖父の島袋真栄さんの話を聞いたことを覚えています。彼はホノルルのダウンタウンでレストランを経営していて、クリウオウで豚を飼っていたことを知っていました。しかし、彼の祖父が秘密にしていた話が一つあります。 「彼はそれについて決して話しませんでした。私の祖母にはそうではありません。「ガレージで写真の入った箱を見つけるのに時間がかかりました。」
「海から豚がやってきた」!
こうして「海を渡った豚」の話は、教科書やミュージカルなどのかたちで広くつたえられるように。
豚が到着した勝連半島、米軍基地「ホワイト・ビーチ地区」。その山手にある平屋敷タキノーには、「海から豚がやってきた」メモリアルが設置されています。
琉球王府時代の和文学者だった平敷屋朝敏が、水不足に苦しむ農民のために溜池を堀り、その際に掘り出した土を盛って築いた小さな丘です。この平敷屋タキノーからは、自衛隊駐屯地や米軍施設のホワイトビーチなども見ることができます。
2018年 - ハワイ州知事「海から来た豚の日」制定
2018年、イゲ知事が9月27日を「海から来た豚の日」(Pigs from the Sea Day) に制定。
デービッド・ユタカ・イゲ (伊芸豊) はハワイ初の沖縄系州知事 (2014-2022年) となる。父方は沖縄系、母方は山口県出身。父は比嘉太郎と同じ第100歩兵大隊に従軍、パープルハート勲章を受けている。
【訳】9月27日(現地時間)、ホノルルのハワイ州議会議事堂の知事式典室で、「海から来た豚」として知られる事件の70周年を記念する式典が行われた。式典には、ハワイ沖縄連合会(HUOA)の関係者のほか、1948年に沖縄の親族に豚を届けるために戦艦オーウェンで出航したハワイ出身の7人の沖縄人の子孫も出席した。
BEGIN の「ウルマメロディー」は感謝の気持ちを込めて作られた。
2013/05/29
戦後沖縄の食糧危機を救う為に、ハワイから550頭の豚をはじめ多くの物資が届いた。その感謝の気持ちを「ウルマメロディー」という歌にして 昨年のハワイのコンサートでその歌を届けた。今年その豚たちが届けられた地、沖縄のうるま市で 豚の音がえしコンサートが開かれ、沖縄とハワイを繋ぐ歌として、沖縄のエイサー、ハワイのフラと一緒に演奏が行われたライブ映像。
【訳】ゆいまーるの精神はこの歴史的な人道的取り組みの基礎であるとイゲ知事は述べた。
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忘れないようにしたい、
沖縄のおいしいには必ず「ゆいまーる」がある。
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