ハワイに捕虜として送られた沖縄県民

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過酷な移送、絶望の生活…記憶再び 沖縄戦の元捕虜、ハワイの収容所跡地訪問 | 沖縄タイムス

 

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【シリーズ沖縄戦】74年前の今日
1945年 7月7日 『ハワイに送られた捕虜』
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彼岸を渡り、
愛しい魂と邂逅するといわれる七夕の日

 

74年前の今日、

生まれ里から、収容所に、そしてさらに海の向こうの知らない土地に捕虜として送られていく人々がいた。

 

まるで家畜のように船倉につめこまれ、

 

裸船といわれたそれは、まさに、おおよそ140年前まで米国で「操業」していた奴隷船のような様相でもあった。

 

沖縄では最も日差しがきついと言われる七夕太陽 (七夕ティーダ) をまともに浴びながら、炎天下で水も充分にもらえず、木陰のない嘉手納の砂浜で4時間もジッと座らされ、

 

この数百名の男たちは、その後ハワイへと移送されたのだが、乗り込んだ船が違うと扱われ方が違った。

 

一部は客船に乗せられ、

まずまずの環境でハワイに送られたのだが、

 

一部は貨物船に乗せられ、

家畜同様、または、それ以下の環境下でハワイに送られた。いわゆる「裸船」であった。

 

こうして、沖縄からハワイに輸送された県民は当時、三千人にも及んだ。年齢も、元鉄血勤皇隊の少年から壮年まで、ばらばらである。

 

それから72年の月日がたち、

 

その地で亡くなったことが確認された十二名の県民のための、初めての慰霊祭がハワイで行われた。

 

<忘ららん~ハワイ捕虜・72年後の鎮魂~>5 遺族 金城弘昌さん - 琉球新報 - 沖縄の新聞、地域のニュース

2017年6月2日 16:00

決裁文書に祖父の名 慰霊の思い、父の分も

 

若かりし頃の祖父・永保さんの写真を手にする金城弘昌さん。慰霊祭には祖父と父両方の遺影を持って参加する

 

 今年1月中旬、県庁の居室でいつものように決裁文書をめくっていた県子ども生活福祉部長の金城弘昌さん(57)は思いがけない事実を知った。ハワイ捕虜収容所県出身戦没者慰霊祭への協力を求める文書に、祖父・永保さん(享年43)の名が記されていた。「息が止まるほど驚いた」と金城さんは振り返る。

 

 文書には沖縄戦で捕虜となり、移送先のハワイで亡くなった12人の名が記されており、永保さんもその一人だった。5年前に亡くなった父・甚永さんから南風原町津嘉山出身の祖父がハワイで亡くなったことは聞いていた。しかし、沖縄戦で捕虜となり、ハワイに連行されたことは知らなかった。

 

 金城家の長男だった甚永さんは戦中、単身で熊本に疎開した。沖縄に残った祖母ときょうだい7人全員は45年5月25日、南部の防空壕(ごう)入り口で米軍の爆撃を受け、犠牲となった。甚永さんは一人残され、孤児となった。

 

 「記憶を呼び起こすには、あまりにもつらい体験だったと思う」。祖父母やきょうだいのことを一切語ろうとしなかった父の心境を、金城さんは察する。


渡口彦信さんがハワイ州保健局から入手した金城永保さんの死亡診断書。1946年7月18日、ハワイの基地内病院で原因不明の出血により死亡、との内容が書かれている。

 

 4月に入り、ハワイでの慰霊祭開催を計画する渡口彦信さん(90)と面会した。その時、渡口さんから差し出された1982年の新聞記事で、60年ごろ甚永さんの元に当時の厚生省から永保さんの死亡通告書と、髪と爪が入った小さな木箱が送られていたことを知った。祖父は原因不明の出血死でこの世を去っていた。

 

 金城さんは半世紀近く前の父の姿を思い出す。「このころから、父はハワイに行きたいと言い出していたはずだ」

 

 金城さんは今、凄惨(せいさん)な戦争の歴史を刻む平和推進事業を手掛ける業務に携わっている。「この職に就いていなければ、祖父の最期を知ることはなかったと思う」。引き寄せられる運命の巡り合わせは「父からのメッセージに違いない」。

 

 4日の慰霊祭には公務ではなく私人として、家族4人で出席する。祖父の供養をできぬまま他界した父の思いも重ね、金城さんは3千人余の県人の汗と涙が染み込んだ「虹島」の大地を踏みしめる。

 

近年の研究は、沖縄の沖縄戦研究からもハワイの移民研究からも抜け落ちていたハワイの県民捕虜の研究が始まったばかりであることを示している。

 

ご覧ください。⇩

1945年 7月7日 『ハワイに送られた捕虜』

neverforget1945.hatenablog.com