1948年8月6日 『伊江島米軍弾薬輸送船LCT 爆発事故』 - 基地と重層的差別構造

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《AIによるカラー処理》
爆心地から30~35メートル離れた地点に散乱する遺体を前にする地元民。
X印が爆心地XX印が爆発した輸送船の残骸

1948年8月6日、午後5時過ぎ 伊江港で戦後最大の米軍事故

 
ちょうど、夕方の連絡船が入港し、ごった返した伊江港の波止場で、 その惨劇はおこった。
 
米軍が沖縄戦時の不発弾や未使用爆弾を船に積み込んでいる際、荷崩れを起こし爆発した。米軍の LCT (Landing Craft Tank) 1141 が跡形もなくふっとんだ。
 
おそらくはこれと同型。

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LCT-1141 unloading at Saint-Raphaël in southern France during Operation Dragoon, August 15, 1944
 

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《AIによるカラー処理》
爆心地から30~35メートル離れた地点に散乱する遺体を前にする地元民。
X印が爆心地XX印が爆発した輸送船の残骸

 

f:id:neverforget1945:20190807220933p:plain《AIによるカラー処理》爆心地から360メートルの地点まで吹き飛んだ輸送船の残骸。事故現場から約90メートル離れたところにある破壊された家屋の様子。450メートル後方に部分的に破壊されたコンセットハウスが見える。  
 

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《AIによるカラー処理》爆心地から360メートルの地点まで吹き飛んだ輸送船の残骸1948年(昭和23)8月6日、伊江島死者107名、負傷者70人*という沖縄の米軍関係では戦後最大となる事故が発生しました。(*数値は当時の米国事故調査報告書より)  
 
米軍が沖縄戦時の不発弾や未使用爆弾を船に積み込み、島外に運び出す作業をしていた際に、荷崩れを起こし弾薬が爆発しました。夕方5時過ぎに起きた事故は、ちょうどその時間帯に地元の連絡船が入港して波止場が出迎えなど多くの人でごった返していたこともあり、多数の死傷者を出しました。
 

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被害現場付近の見取り図
 

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弾薬輸送船のスケッチ。5インチロケット砲弾約5,000発(約125トン)が爆発1948年8月6日 伊江島米軍弾薬輸送船爆発事故 – 沖縄県公文書館
 

危険な弾薬処理を伊江島の住民とアフリカ系やアジア系の兵士に押しつけた

 
弾薬処理をやらされていたのはフィリピン人やアフリカ系アメリカ人兵ばかりだったという証言。土地を奪われた伊江島の住民も無報酬で軍の仕事を手伝わされていた。
 
ありえないほどずさんな管理の責任を問われ、軍の管理者は事件後自殺。
 

Qリポート 爆発事故から61年 港で何が起こったのか

 琉球朝日放送 報道制作局 2009年8月5日

 

あす、8月6日は広島の原爆の日で知られていますがじつはアメリカ軍が日本で起こした最大の事故、伊江島「波止場事件」の日だということは、あまり知られていません。0歳から67歳まで、一瞬で100人あまりの命が爆弾で飛ばされたという大惨事、いったい何が起きていたのか。遺族が初めて語ります。

 

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伊江島に野積み状態の爆弾 (1948年6月)

 

1945年4月。草木一本残らないほどの砲弾を浴びた伊江島は一足先にアメリカ軍に占領されました。住民は強制移住させられ、島は本土を空襲するため、大量の爆弾が集積されました。戦後、ようやく島に戻った人々が見たのは、そこらじゅうに野積みされた砲弾の山。生まれ島は、「爆弾の島」になっていました。

 

「一刻も早く爆弾を処理してほしい」島民の要請を受けて1948年7月米軍は爆弾の海洋投棄を始めました。

 

8月6日も朝からLCTと呼ばれる軍の揚陸艇に爆弾を積む作業が行われていました。夕方5時。本部からの連絡船が港に入り迎えの人でごった返していました。その瞬間です。

 

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二隻の揚陸艇が爆弾の海洋投棄をくりかえした
 

友寄ヤスさん(当時18歳)「もう、ぴかっといってからよ。この破片が真っ赤にしてこうきているわけさ。して自分の足に当たったのも分からないさ。もう黒いのとかの問題じゃない。みんな真っ赤。私の思いでではよ。飛んできたのもみんな赤く見えていたわけ。」

 

5000発の爆弾が船ごと爆発。木っ端みじんになった船体は350メートル先まで飛び、家4軒が全焼、住民は焼死。そして港は100人を超す遺体が散乱していました。一瞬で断ち切られた命。遺体の破片さえ見つからない人もいました。

 

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死者107人のうち県民は94人 (米軍記録)
 

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儀間ミツ子さん(当時14歳)「父と一緒に、本部にイモを売りに行ったんですよ。その時伊江島はお芋がいっぱいでよ。帰りは魚とかカツオと交換して帰ってくる日なんでした。」

 

本部に行った事がうれしくて、みつ子さんは、港で友達にその話をしている時に飛ばされました。目をやられ、気づくと中部病院にいたそうです。

 

儀間ミツ子さん「お父さんと一緒に上まで上がっていたら、ケガしないでこっちまで(中部病院)来なくてすんだのにねえと思ったんですよね。うち帰って、退院して帰って来てからお父さんの位牌があるから亡くなったんだねえと思ったんであって」

 

知念シゲさんは、祖父の長二さんとともに、7歳のいとこのよしあき君を探しました。お母さんを迎えに港に来ていたのです。

 

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シゲさん「うちのおじいさんは、棒をどこから探してきたのか、持ってこんなして波打ち際で孫を探していたんですよ。」「自分の孫が足の指が特徴のある子だったから、これじゃないかねえって」「ああこれだと言って、おじいさんすぐに抱きあげてこっちこっち合わせたら、であったわけですよ、孫。じいさん自分の上着で抱いてからうち帰ったの昨日のように覚えているんですよ」

 

直前までよしあきくんと遊んでいた大城文進さんは、とっさに海に潜って助かりました。

 

大城文進さん「あき坊って言ってね、人懐っこい子でね。まだ船が入らんからこっち来いって言って。ウニを食べさせとった。そしたら船が入ってきて」「ちょっと意地悪して引きとめておけば。3分でも1分でもよかった。それがもう、これはまだ、遺族にも言ったことはないんだけどね」

 

なぜ、爆発は起きたのか。島の人は、積んでいた爆弾が崩れたとだけ、聞かされていました。しかし去年見つかった米軍の調査報告書には意外な事実が書かれていました。爆弾の取扱規則に反して、船上の喫煙があったこと。

 

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爆弾のそばに軽油の缶が置かれていたこと。さらに爆発した船からわずか50メートルの距離にいた島民はこんな証言をしていました。

 

Q「その黒人兵は、爆弾の上を歩いたのか?走ったのか?」

A「駆け上がったから、爆弾が崩れ始めたんです」

Q「LCTには、爆弾の上を歩く以外にスペースはなかったんですか?」

A「たぶん。。。びっしりと敷き詰められていましたから」

 

爆弾の上に乗って爆弾を積むというずさんな方法がとられていたのです。アメリカ軍の現場責任者は軍の追及を前に自殺しています。決定的な証言をした知念権三さんは、奇跡的に軽傷ですみました。

 

知念さん「トラックは扉の前に止めてよ。その黒人が下りて、2,3mはあるいて、砂だからよ、扉から走ってすぐ弾の上に飛び乗って弾が崩れた」白人は見たことなかった。黒人ばかり

 

犠牲になった軍関係者はフィリピン人と黒人だけ。危険な任務を彼らに押し付けていたばかりか伊江島の住民にも、無報酬で手伝わせていた実態も明らかになりました。

 

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知念さん「ぼくは一回は自動車に爆弾を乗せるのに行った事がある。知念さんが?うん、上では黒人兵が受け取る。下からは自分たちがトラックに揚げる、先はぶつけるなよ〜と言って」

 

東江さん「占領地だから謝罪など全然なかったですよ」

 

兄を事故で失った東江さん。それでもアメリカを恨んではいないといいます。

 

Qアメリカが憎くはないですか?

東江さん「憎くはないですよ。沖縄の人は2年間無償で食料を与えられているものだから」

 

戦に負けたんだから仕方がない。伊江島の人々は戦争の一部としてこの事故を忘れようとしました。

 

しかし現在沖縄にある、あるいは今後積み下ろしされる爆弾がいつ、また誤って火を噴くのか。「爆弾を抱いて眠る日々」は続いているのです。

 

こんな大きな事故があまり知られていなかったことにまず愕然としますね。私の住む浦添にも軍港建設が予定されていますが、生活圏に軍港がある怖さを再認識させられますね

 

大浦湾にも、弾薬庫を背景にした軍港が予定されています。さらに有事法制下では、軍港の荷役作業に県民があてられる可能性も大きい。伊江島の爆発事故は、決して過去の事件ではありません。

 

伊江島を東洋一の基地悲劇の島にさせた日本政府も米国政府も、誰も島のいのちと生活を保障しなかった。戦後の弾薬処理すら、すべて島民とアジア系やアフリカ系米兵におしつけたのだ。

 

本島優先、伊江島では6月13日にも砲弾集積場大火災が起きていた !

 

起こるべくして起こった爆発事故。伊江島の砲弾管理を後回しにして放置、大量の砲弾をずさんな管理。

 

1948年の米軍LCT爆発で新資料 伊江島の砲弾集積場、危険性放置

沖縄タイムス+プラス 2017年2月15日 08:18


 1948年、住民178人の死傷者を出した伊江島の米軍LCT(上陸用舟艇)爆発事故は、直前に起きた砲弾集積場の火災を機に、処理を急ぐ中で起きた事故だったことが、14日までに関係者の調査で分かった。米軍による報告書によると、米軍は人材や設備不足から、伊江島の砲弾集積場の危険を放置し、沖縄本島内にある集積場の処理を優先していた。識者は「基地の中の沖縄という実態が伊江島に凝縮している」と指摘した。

 

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伊江島LCT爆発事故の2カ月前に起きた火災に関する報告書の一部(沖縄県公文書館蔵)

 

 同村出身で、爆発事件を調べる長嶺福信さん(68)が、県公文書館で、48年6月13日に起きた火災に関する115ページの報告書を確認した。火災は、爆発事故の2カ月前、伊江島北海岸の弾薬集積場で発生弾薬が爆発し、広範囲に燃え広がり、住民が避難した。鎮火までに4日かかる大火災だった。

 報告書によると当時、米軍は沖縄戦の最中から、空軍1万2180トン、地上部隊2158トンの弾薬を保管。安全な保管方法の定めに抵触していたが、改善されず大火災につながったとした。

 添付資料として火災前年の47年、読谷・嘉手納、那覇など7カ所あった弾薬集積場の実態を示す年報があった。中でも伊江島は推計で砲弾保管量が最も多かった。だが人材や設備、費用の不足に加え、基地と住民への安全性の観点から、沖縄本島内にあった弾薬集積場の処理を優先。伊江島での処理は後回しとなった。

 報告書は、火災を受けて、伊江島での砲弾処理の遅延がないように指摘。米軍はこれを受けて、処理を急いだと見られる。報告書がまとめられた約1カ月後に、LCT爆発事故が起きた。

 

 同事故を調査した沖縄国際大学の石原昌家名誉教授は、伊江島の処理が後回しだったことに「伊江島は日本軍にとっても、米軍にとっても『不沈空母』だった。基地の中の沖縄の縮図が伊江島に表れている」と指摘した。 長嶺さんは報告書がきっかけとなって「事実を伝えるために、経験者が語ってくれれば」と期待する。同問題を調べる「沖縄の軌跡」発行人の島袋和幸さん(69)とともに、17日午後1時半から、伊江島はにくすにホールで関係者による座談会を開催する。

  

戦前、伊江島の土地を接収した日本軍は、島に「東洋一」と呼ばれる巨大飛行場を建築した。その建設に島の人だけではない。多くの学徒が本島や離島から送り込まれた。軍が島を守ってくれると誰もが信じていた。

 

しかし戦争がおこったとき、「東洋一の飛行場」は島を守るどころか、島を「標的」にさせただけだった。島民の半数が戦争でいのちを奪われた。日本軍は、女性や子ども、大陸から連れてこられた慰安婦まで戦力として使うように徹底した訓練をさせていたため、逃げ場のない島で、切り込み隊や集団自決に追い込まれた。

 

生き残った島民は本土の収容所に送られたが、多くの県民が収容所から出ることを許された時期になっても伊江島の住民はなかなか帰島を許されなかった。今度は米軍が伊江島大掛かりな飛行場建設を整備していたからである。

 

伊江の住民は最も劣悪な状況にあった辺野古・久志の収容所に送られたり、いまだ日本軍が闊歩する渡嘉敷へと送りこみ、伊江島の男女6人が赤松隊によって虐殺されたりした。

 

1954年土地の強制接収始まる「銃剣とブルドーザー」

 

沖縄戦から二年後、やっと帰島をゆるされた島民が直面したのは、米軍の広大な飛行場と、荒れはてた土地だった。土地も経済も米軍に支配された島で、さらに米軍は基地拡大のため、さらに伊江島の残りの土地を強制接収し始めた。

 

 1954年6月、初めての立ち退き命令が4戸にだされ、米軍が軍用地を接収しようとしていることが明らかになった。合計152戸の農民が琉球政府立法院にも陳情を繰り返し訴えた。
 1955年3月11日から米軍は300人の武装兵を上陸させ、民家13軒の強制立ち退きを実行した。家に火を放ちブルドーザーで引きならし、それを制止しようとした老人に暴行を加えて拘束した。「この島はアメリカ軍が血を流して、日本軍よりぶんどった島である。君達はイエスでもノーでも立ち退かなければならない。君達には何の権利もない」と米側は言い放った。

伊江島米軍基地と沖縄のガンジー阿波根昌鴻の非暴力闘争 - 一人ひとりが声をあげて平和を創る メールマガジン「オルタ広場」

 

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本土視察団(高岡大輔団長)来沖 レムニッツァー民政長官招待 主席公舎 伊江島真謝区民による歓迎及び土地問題解決を訴える垂れ幕

1957年 5月17日

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

戦力による土地強奪、住家、農作物を焼き払い、人家の側で爆弾演習、相次ぐ ・・・(判別不明) ・・・に泣く私たちを救ってください 伊江島真謝区民。

 

こうして米軍は伊江島で核弾頭の投下訓練を繰りかえしたのだ。

 

ospreyfuanclub.hatenablog.com

 

今も続く伊江島の苦しみ

  1. 伊江島「たらい回しうんざり」 辺野古移設で訓練増大懸念も 沖縄県民投票 - 毎日新聞
  2. ステルス戦闘機が夜間訓練 伊江島着陸帯 - 琉球新報
  3. 伊江島で騒音激化 12月、西崎区で90デシベル超40回 LHD運用が影響か - 琉球新報
  4. 「パラシュート降下は伊江島で」に不快感 村長「もろ手を挙げたわけではない」 | 沖縄タイムス

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