1944年12月11日 - 沖縄県営鉄道輸送弾薬爆発事故
1944年11月17日、米軍上陸が予期されるなか、大本営は虎の子の第9師団を台湾への転出を命令し、その後の沖縄への補充もしなかったため、沖縄守備隊第32軍は米軍上陸を前に戦略変更を余儀なくされる。
沖縄軽便鉄道の爆発事故は、この第9師団の抜けた穴を埋めるため、中部に配備されていた第24師団の沖縄南部への移転を進めていたさなかにおきる。事故後の緘口令により正確な犠牲者数は不明であるが、弾薬の上に第24師団の200名以上の兵士と十人ほどの女学生を含む民間人をのせたまま、軽便は大爆発した。
爆発の原因は、常識では考えられないネグレクト。
沖縄戦の前から既に日本軍の指揮と風紀は破綻していた。
事故は喜屋武駅を過ぎ、稲嶺駅に向かう途中で起こっている。貨車6両分の武器弾薬、貨車各1両分のガソリン、医薬品を失い、そして近くの畑に積まれていた数百トンの弾薬にも飛び火、爆発したという。事故は民間人数人を含む二百数十人の生命をも奪った。事故は1両目のガソリンが発火、後方の弾薬に火が移って爆発したものだった。無蓋(がい)車に弾薬、ガソリンを積む非常識。
「ごう音と同時に、きのこ雲のような大きな黒煙が空に上がった。壕の中に隠れたが、一晩中爆発音が聞こえた」と当時の様子を振り返る。集落のガジュマルには飛び散った肉片や医療用のガーゼなどが付着していたという。
このように沖縄守備隊第32軍は第9師団に続いて、膨大な弾薬と装備品と200人以上の兵士と軌道を喪失した。長参謀長は烈火のごとく怒ったという。
山兵団は神里付近に於て列車輸送中兵器弾薬を爆発せしめ莫大なる損耗を来せり一〇・一〇空襲に依り受けたる被害に比較にならざる厖大なる被害*1にして国軍創設以来初めての不祥事件なり、此れに依り当軍の戦力が半減せりと言ふも過言ならず、此れ一二兵団の軍紀弛緩の証左にして上司の注意及規定を無視したる為惹起せるものなり、無蓋車に爆弾ガソリン等を積載すべからざることは規定に明確にてされあるところにして常識を以て判断するも明らかなり、輸送せる兵団は言ふに及ばず此れが援助を為せる兵器兵姑地区隊も不可にして夫々責任者は厳罰に処せらるべし、
県民に愛された「ケービン」
材木やサトウキビを運び、人々の経済活動を支えた「ケービン」。
しかしその頃、軍はケービンも軍用鉄道として使用していた。
その後、1941年に太平洋戦争が勃発。沖縄にも不穏な空気が漂い始めた1944年ごろ、日本本土の部隊が那覇に上陸し、軽便鉄道は県民の足から軍用鉄道へとその役割を変えていきました。そして、沖縄戦によって壊滅的な被害を受けた1945年、軽便鉄道「沖縄県営鉄道」はついにその姿を消すことになったのです。
第32軍による隠蔽
自宅に戻ると、ガジュマルには車両に積まれていた医療用のガーゼが「木が真っ白になるくらい」にぶら下がり、飛び散った赤黒い体の一部も見た。事故から翌日、軍はかん口令を敷いた。友人同士でさえ、事故の話はすることはなかった。「憲兵が集落に入ってきて、事故の話をしたらいけないと言っていた。あの頃は言うことを聞かないと殺されると思っていた」
ケービンは南へ進んだ。最初に到着したのは古波蔵(こはぐら)駅である。嘉手納駅から糸満方面へ行く場合は、この古波蔵駅でいったん方向転換することになっていた。
ここで、機関車が貨車から切り離され、燃料補給のためにいったん那覇駅へ移動した。そして、古波蔵駅に残された貨車に、今度は進行方向とは反対の方向からやってきた三両の列車が接続した。この三両のうち一両目は機関車で、二両目はガソリン入りのドラム缶が積まれた無蓋の貨車である。そして三両目は有蓋で、医薬品などの物資が乗っていた。二・三両目にはいずれも兵隊が腰を下ろすなどして乗り込んでいたようだ。列車全体が兵員で溢れていた。
さらに古波蔵駅では、衛生兵約60名と、帰宅する女学生4~5人も乗り込んだ。本当は、1943(昭和18)~1944(昭和19)年当時にはケービンは客車とは連結しなくなり、一般人は乗れないことになっていた。完全に兵隊や軍需物資などの運搬が優先されていたのだ。ただ、学生と公務員だけは黙認されていたらしい。
女学生たちは大喜び。さっそく、医療品などが積み込まれた有蓋貨車の方に乗り込んだ。
和やかに談笑する女学生と兵隊たちを乗せて、ケービンは走っていく。次に到着したのは津嘉山(つかやま)駅である。午後4時のことで、ここでも女学生2人が乗り込んだ。
さらにケービンは進む。150名以上の乗客と武器弾薬を積み込んでいるので、スピードはかなり落ちていた。しかも、山川駅と喜屋武(きゃん)駅を過ぎれば今度は上り坂である。真っ黒い石炭の煙を煙突から吐き出しながら、列車は這うようなスピードで進んでいった。この時、ケービンの煙突からは煙のみならず、火の粉も飛んでいたという。
やがて列車は神里(かみざと)の東側のはずれ、南風原(はえばる)村(現・南風原町)神里に入り、田園と小川を横切っていった。
時刻は午後四時三十分。稲嶺に向かう切通し付近で上り坂に差しかかった時、貨車が突然火を噴き、大爆発を起こした。
最初に発火したのは、機関車の後ろ(二両目)の貨車に積まれていたガソリンだったようだ。ものがガソリンなので発火自体が爆発的だったと思うが、その火炎は後方の貨車に積まれた弾薬にも引火し、次々に誘爆が起きた。周辺一帯はたちまち火の海と化し、乗っていた人々もその餌食になっていった。爆発の衝撃は現場周辺の大地を震わせ、さらにその轟音は、島の全域に響き渡ったという。
この事故の生存者はたった三名。途中で乗り込んだ女学生のうちの二人と、汽車の運転士である。以下では、この三名のうち二人の証言を掲載しておく(資料から転載するにあたり、内容の改変にならない程度に手を加えている)。まずは、当時48歳だった運転士。
【証言1】
「12月11日も、朝から緊急輸送命令を受けて、武器弾薬と兵員の輸送に当たっていた。私は直ちにブレーキをかけたが、強烈な火のかたまりが機関車に吹き込み、頭部、両手、両足に火傷を受け、さらに両耳に爆風が吹き込んだ。それ以来、耳に不調をきたした。
私は列車より脱出し、近くの稲嶺駅に駆け込み本部に電話連絡しようとした。しかし電話線が切れ不通となっていた。さらに東風平駅まで走ったが、同様に不通であった。
私は茫然となり、県道を那覇へ向って進んだ。奇跡的にも私は生き残っている。どうして助かったのか私自身よくわからない。同乗者の機関助手一人と車掌二人はその場で不明となった。
その時の火傷の後遺症と耳の不調は、私の一生につきまとう。
数百人の人間が日本軍の弾薬によって畑に散り、虫けらのように死に絶えて行った事実は殆んどの人が知らない。
沖縄での戦争は、米軍との決戦以前から、一般住民に対して犠牲をしいるだけであった。
罪のない多くの国民を大量に殺していくのが戦争の実態である。
あの時の、恐ろしい悪夢の思い出は八十才過ぎた今日でも脳裏に焼きついて離れない。」
次は、当時乗り合わせた女学生の証言。那覇駅で乗り込んだ女の子たちの一人である。
【証言2】
「三、四人は有蓋貨車の外側に立ち乗りした。
古波蔵駅に着くと、兵隊がいっぱい乗っている貨車六両くらいにつながれ、ゆっくりと糸満に向けて発車した。
前方で火を見たとたん非常に危険を感じ直ぐ飛び降りた。
火の海の中を走り抜けたような気がする。
しかし、その時は気が動転して記憶もさだかではないが、逃げ出した時には髪の毛と着物に火がついていた。
たまたまそこに小川があったので、飛び込んで火を消したが、気が遠くなるような気がして座り込んでいた。
そこへ、遠巻きにしていた兵隊が走ってきて肩を貸してもらい、付近の農家に案内された。しばらくしてからトラックで南風原小学校の陸軍病院へ運ばれた。
運び込まれた陸軍病院には、黒焦になった者、全身皮がむけた者、何十人もの人々が床の上でうめき声を上げ、殺してくれと叫びながらのたうち回っていた。
一週間の間に、ほとんどの者たちがバタバタと死んでいった。
自宅治療をしたが、二ヶ月間痛さで苦しみぬいた。」
少し補足しておくと、【証言2】の女学生は令和の時代になってからもご存命で、2020(令和2)年6月に放送されたドキュメンタリー番組では、上述のものと同じ証言をしている。それによると、彼女が列車から飛び降りたきっかけは「前方で火を見た」ことだけではなく、危険を感じた兵士が貨車からバラバラと下りるのを見たからだという。彼女はそれに続く形で脱出したのだ。結果、兵士は一人も助からず彼女だけが生還した。小川に入って助かった(テレビでは「溝」と表現していた)彼女は、爆発直後に後ろを見たが、誰の姿も見えなかったという。
この二つの証言だけでも気が滅入ってくるが、事故の全体像から見ればまだ序の口である。爆発と火災が発生したのは、鉄道車両だけではなかった。
当時、現場付近の神里集落では172世帯が生活しており、線路の周辺では沖縄戦に備えて陸軍や野戦重砲隊が駐屯していた。あわせて大量の弾薬がサトウキビ畑に野積みで隠されており、これにも火が燃え移ったのだ。
誘爆に次ぐ誘爆――。幸い、神里集落では死者こそ出なかったものの、家が一件焼け、もう一件にも延焼した。また爆風によって壊れた家もあった。住民たちの中には、黒煙で真っ黒になった空を見上げて、ついに戦闘が始まったのかと思った者もいたという。彼らは防空壕や他の地区へ逃げるしかなかった。
神里集落などの現場周辺には、爆発によって巻き上げられた様々な物品が降ってきた。医療品のガーゼや包帯などで家の屋根や道路は真っ白。また人間の肉片や、汽車に乗り込んで犠牲になった女学生のネームプレートなどが引っかかっていた樹木もあったという。戦後になってからは、犠牲者のものとおぼしき人骨が畑から出てきたりもした。
事故の急報は、東風平(こちんだ)国民学校(現在の東風平中学校)にもたらされた。そこは第24師団の病院として使われており、先の9・10日のうちに移動していた衛生兵が駐留していた。彼らはただちに現場へ急行したが、凄まじい火災で遠巻きに眺めているしかなかったという。
爆発はなかなか収まらず、ようやく救助活動が可能になったのは、あたりが夕闇に包まれからだった。衛生兵たちは携帯の電灯などを使い、まだ息のある者を手探りで助け出しては、当時の陸軍病院である南風原小学校のほうへ運搬した。既に息絶えた者は先述の東風平国民学校のほうへ安置された。
当時は、おそらく投光器のような便利な道具はなかったのだろう。救出・収容作業は業遅々として進まず翌日に持ち越された。翌12日はさらに多くの人が作業に駆り出されている。
陸軍病院に収容された犠牲者も、事故後一~二週間の間に苦悶のうちに息を引き取っていった。先述の通り、この事故の生存者は三名とされているので、病院に収容された者もほぼ全員が死亡したことになる。
当時の陸軍病院の様子は、資料によると「地獄のような有様」だったという。詳細はここでは書かないので、興味のある方は資料編の方を読んでいただきたい。「比較的」かるい火傷で済んだ女学生たちは、家族に引き取られて自宅療養することになった。
もちろん警察も放ってはおかない。事故発生を知った与那原(よなばる)署は、密かに現場へ警官を送り込んでいる。しかし現場はすでに軍がロープを張っており、サイドカーに乗り込んだ憲兵たちが続々と集まっていた。先に彼らが復旧作業と原因調査にあたっていたため、警官が立ち入ることはできなかった。
思うにこの時から、すでに軍による「不祥事隠し」が進んでいたのだろう。事故が起きた年の3月に沖縄本島に司令部を置いたばかりだった第32軍(「軍」は「師団」よりも上位にあたる)は、民間人の動揺と、大本営から怒られるのを避けるため隠蔽をはかっていたのだ。縄を張って現場を封鎖したのは、いわば「隠蔽工作その一」である。
次に、隠蔽工作その二。この事故で死亡した兵員はかなりの人数に上ったが、その遺体は密かに火葬された。遺体の安置所となった東風平国民学校では兵員による合同の葬儀が行われたが、それは民間人の知るところではなかった。
隠蔽工作その三。それ以外の犠牲者の遺骨も密かに処理された。女学生の骨箱は遺族へ。軍人のものは各中隊へ――。遺族は泣き寝入りするしかなかった。
その四。完全な箝口令が敷かれ、地元の新聞にも記事が一切載らなかった。戦後に戦史を整理してきた防衛庁戦史室も、この事故のことは第62師団の会報綴によって初めて知ったという。
犠牲者の人数は次の通りである。
・軍人の死者 ……210名前後
・女学生の死者 ……8名
・鉄道職員の死者 ……3名
・生存者 ……3名
鉄道事故として見れば、日本の鉄道事故史上最悪である。こうした数字も、隠蔽工作によって長い間明らかにされていなかった。
ただ、これは単なる想像に過ぎないのだが、事故があった事実自体が軍によって完全に隠蔽されたということは、実際には爆発に巻き込まれた兵員の中に生存者がいた可能性もゼロではないのではないか……そう考えることもできると思う。むしろ情報が全て非公開だった中で、この死者数と生存者数はどこからどうやってはじき出されたのかという疑問もなくはない。
さて、この凄惨極まりない爆発事故の原因はなんだったのか。当時は巷でスパイ説などが囁かれたりしたが、今のところ最も有力なのは、ここまでの経緯を読んで頂ければだいたい想像がつくと思うが「石炭の火の粉がガソリンに引火した」説である。
ケービンは石炭を燃料としていたため、火の粉がよく出た。事故が起きた現場は急な上り坂なので走行するには馬力が必要で、そこで無理がかかる。いつも鉄道員たちはこの坂に差しかかると古い石炭の燃えカスを捨てて、新しいのと交換して火力を上げていたという。
そのため、周辺のサトウキビ畑では毎日のようにボヤ騒ぎが起きていた。周辺の農家たちは、毎度「またか!」とぼやきながら消火にあたっていたのだ。
このような状況で、ガソリンと武器弾薬を積んだ列車が機関車に接続されていたのである。逆に何も起きない方が奇跡的だ。「ガソリン缶を積んだ無蓋車に最初に火が付いた」という生存者の証言とも一致するし、爆発的な燃焼が貨車や周辺のサトウキビ畑に積まれていた弾薬に引火したということでまず間違いないだろう。
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