『十・十空襲』

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沖縄戦の絵】『10・10空襲直後に描いたノート 』

昭和19年の10・10空襲直後、1~2週間ほどの間…に描いた空襲の記録の一部。10月10日の朝7時前、米軍機が現れて爆撃が始まった。…家族4人は、自宅から500メートルほどの那覇市若狭の墓の中に避難。中は大勢の人で溢あふれ、担架で運ばれてくる負傷者もいた。午後6時ごろようやく空襲がやみ、被害の無かった那覇市郊外の高台へ向かった。火災を避けて初めは海沿いを進んでいたが、現在の松山のあたりで次第に街なかの炎が行く手を阻むようになった。道の両側が燃え上がって熱くてたまらず、できるだけ道の中央を歩いた。前を行く人たちを見て「あの人たちが通ってるから大丈夫だ」とついていった。およそ3時間後ようやく高台にある知人宅に到着。夜の9時になっていた。』

10・10空襲直後に描いたノート | 沖縄戦の絵 | 沖縄戦70年 語り継ぐ 未来へ | NHK 沖縄放送局

 

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74年前の今日、延1,000機の米軍艦載機が奄美諸島を含む沖縄県全域に対し空爆を行なった。

那覇市の9割が焦土と化した『十・十空襲』があったのだ。

十・十空襲で那覇市の被害が多く語られてはいるが、実は奄美諸島を含む沖縄県の島々も空爆を受けている。

沖縄戦の開始は、実は1944年の『十・十空襲』からではないか、と思う。

なぜならば、太平洋地域の米軍は、大規模な空爆の1週間前に『琉球列島を確保せよ』との命令を受けていたからだ。

米軍は、このときから沖縄を『確保』するために攻撃し、その後も『確保』し続けている。