【シリーズ沖縄戦】74年前の今日
1945年5月12日 『今帰仁村と渡野喜屋の住民虐殺』
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2014年12月10日、故翁長知事が圧勝し、辺野古の新基地計画が暗礁にのりあげると、それに呼応するように、翁長知事と中国に関するデマが拡散された。
そんな沖縄フェイクニュースは今に始まったことではない。沖縄戦当時、戦争で負けるのは沖縄県民のせいだ、スパイがいる、などのうわさが飛びかいはじめた。
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軍を押しつけられ、少年兵から女学生まで協力させられたあげく、それでもスパイではないかと疑われた。防衛隊に入っている少年たちに、兵たちのなかには「こいつらは、シナの子孫だから、何するかわからんよ」と面と向かって言う日本兵もいた。それはすぐに住民虐殺という形になって突出する。
あらぬスパイの疑いをかけられ殺された沖縄人の正確な数を把握することは難しい。スパイ容疑で殺されたことを本人が「証言」することはできない。スパイとみなされたら、十中八九殺される。死人に口なしだ。
具体的に、どのようにスパイの容疑がかけられていったのか、おびただしい証言の中からいくつかあげてみよう。
知念村の前城常昂は日本軍に納めた薪代を請求したため、スパイの疑いありとして殺害された。
知念村 において村会議員大城重政は部隊の兵隊が無断で村民の家畜 を運び去るのを抗議したため 「スパイの疑いあり」 として殺害された。
日本兵は毎日のように住民の避難小屋に食料徴発にやってきました。あと一週間した ら連合艦隊がやってくるから隠 してある食料を軍に供出しなさいと、デマをとばすのはまだましな方で、刃物をつきつけたり、手りゅう弾をふりかざしたりしてまず しい食料を奪っていくのがいました。
また、障碍者は日本軍の残虐なスパイ狩りの犠牲にあった。
地元の人たちから尊敬されていた照屋忠英校長は、難聴であったというだけでスパイ容疑をかけられ、ひどい拷問の末、惨殺された。
1945年5月12日
北部の今帰仁村と大宜見村渡野喜屋でそれぞれ住民虐殺がおこった。
① 大宜味村の渡野喜屋事件
battle-of-okinawa.hatenablog.com
➁ 今帰仁の住民虐殺
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「首里城地下の沖縄戦 32軍司令部壕 第7回」1992年6月23日付琉球新報掲載
〈虐殺/スパイのぬれぎぬで/「上原トミさん」
1 | [研究論文]沖縄戦の特質 / 玉木, 真哲 -- 浦添市立図書館,2002-3-22,浦添市立図書館紀要 = Bulletin of the Urasoe City Library no.13 p.64-76 紀要論文 |
2 | 沖縄戦における住民「スパイ」視について-既刊行物をもとに- / 地主園, 亮 -- 沖縄県教育委員会,2000-3-16,史料編集室紀要 no.25 p.103-126 紀要論文 |
3 |
沖縄戦における住民と日本軍の関係についての一考察-住民のスパイ視における兵士の対応を中心に- / 地主園, 亮 -- 沖縄県教育委員会,2005-3-30,史料編集室紀要 no.30 p.45-60 紀要論文 |
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1945年 5月12日 『今帰仁村と渡野喜屋の住民虐殺』
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