『父の日』の沖縄戦

 

「父の日」に想う沖縄戦

6月の第3日曜日は「父の日」です。

 

父親と一度の会話もないままに歩みし吾は八十路坂

 

これは、父の日の今日、琉球新報の「平和のうた」で掲載された短歌だ。

選者の解説は、こう綴っている。

 

乳飲み子の作者を残して戦地へと赴いて行き、戦死した父。亡き父親の面影を追い求める日々。娘の成長を見守る幸せはおろか、日常の会話さえ奪い取っていく戦争。父親の年齢をはるかに超えた作者の心情が心を打つ。

 

そして、新報小中学生新聞「りゅうPON!」の慰霊の日特集では、「なぜ県民が犠牲になった?」という疑問に、こう説明している。

 

日本軍は沖縄県内で足りない兵力を調達しようと、主に17〜45歳の男性を「防衛隊」14〜19歳の生徒を「学徒隊」として戦闘に参加させました。残った老人や女性、子どもらには飛行場や陣地造り、食料の調達を担わせました。沖縄が戦場になることが予想されていたのに、住民保護のための十分な避難計画を立てておらず、多くの県民が地上戦に巻き込まれました。

 

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Wounded Nip soldier taken from blasted cave is brought up Hill by Marine. Mezado Ridge.

爆破された壕で捕らえられ、海兵隊員に丘へ連行される負傷した日本兵。真栄里丘陵。(1945年6月17日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

さらに同特集は「戦前・戦後の人口比」が年齢と性別で比較できるグラフも掲載しており、73年前の沖縄県民の人口に関し、こう解説している。

 

沖縄戦は働き盛りの多くの男性の命を奪いました。戦前と戦後を比べると、兵隊などで戦場に召集された20〜40歳代の男性が特に減っています。1945年では、沖縄の全体の人口に対して男性は約4割になりました。夫を失った女性たちは戦後の混乱の中、子や親を抱え、1人で生活を支えなければなりませんでした。

 

防衛隊として召集されない年齢であったとしても、沖縄の男性たちは「お国のため」に戦場にいた。

 

新報の解説は、45歳以上の男性たちによる「食料調達や陣地造り」に触れているが、

 

前線の戦闘部隊が必要な弾薬の補充を命じられ、無防備なまま、砲弾が降り注ぐ中を歩いて重い弾薬を運んだ男たちのことや、危険な戦場の道案内を命じられたりした男たちのこと、

 

苦しい生活のなかで次々と繰り出される軍の食糧や物資の供給に苦しみ、軍に抵抗した男たちのことや、郷土を護れと斬り込み隊に送りだす軍を抜けだし、懸命に家族のもとに帰ろうとした男たちのこと、

 

自分や家族の命よりも大切だと考えた「御真影」を抱え、やんばるの森を彷徨い歩いた男たちのこと、は書かれていない。たとえ、

 

防衛隊に召集されない年齢であっても、沖縄の老若男女はすべて「お国のため」にかりだされていたのだ。

 

また、何らかの命令を免れていたとしても、夫や息子を防衛隊に取られた親戚などと共に、少しでも安全な避難場所を探し求めた男たちや、米軍や日本軍から家族を守るために自らを盾にし、還らぬ人となった男たち、そして「鬼畜米英」という日本国のプロパガンダを信じることなく、必死で投降を説得した男たちもいた。

 

それとは逆に、日本国や日本軍からの教えを信じて「自決」する道を選び、自分の妻や子供、親をてにかけ、あやめてしまった男たちや、暗い壕の中で泣く赤ちゃんを抱いた母親を追い出した男たち、

 

さらには、同郷の誰かを「スパイ」に仕立てあげ、怪しげなリストを提供し、日本軍と日本軍のスパイ狩りに協力した男たちもいた。

 

74年前の沖縄には、様々な事情や立場に置かれた沖縄の男たち、父たちがいたわけだが、

 

ひとりでも多くの父たちが、もっともらしく軍や政府が語る情報を疑い、恐怖と憎悪に判断力を失うことなく、生命を助けるための勇気ある判断をしていたならば、

 

ほんとうは救えたいのちがもっと多くあったのではないか。ー それは後に見るように当時の当事者たちが真剣に思い悩んだことでもあった。

 

本当の勇気とは、権力と軍隊を拠りどころとして、どっぷりとデマやプロパガンダに浸りこんで、その手に武器をふりまわすことではない。

 

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昭和20年6月23日、金城さんの家族が糸満市真栄平の壕を出て米軍の捕虜になった時の様子。いちばん左側に描かれているのが父親、右隣が金城さん自身。米軍が「何もしないから出てこい。あと1時間後には攻撃を始める」と投降を呼びかけた。父親は、家族や近所の女性たちに声をかけ先頭に立って壕を出た

 

前を見てごらんアメリカの兵隊が来るよ。逃げると撃たれるよ」と言って米兵の方へ近づいていった。

 

初めて見る米兵に、幼かった金城さんは恐怖で震えたが、住民に水や食糧の缶詰が与えられ危害を加えられないことがわかると、子ども心に生き抜いた喜びがわき上がってきた。金城さん『私の住んでいる地区では壕の中で手榴弾を爆発させて「自決」したり、火炎放射器で焼かれたりして全滅した家族もたくさんあった。父がいなければ私たちも生きていなかったはずで、今も父の勇気に感謝している』

父の勇気で家族全員が投降 | 沖縄戦の絵 | 沖縄戦70年 語り継ぐ 未来へ | NHK 沖縄放送局

 

私たちが歴史から学んだはずの事だが

 

軍隊が沖縄を「守る」というとき、それは我々の人々の生命や暮らしを守るということではない。軍隊が守ると主張するものは、上からの命令と軍の体面と土地の面積でしかない。

 

武器はそれを持つ人間を豹変させるが、最終的に軍は住民を「足手まとい」と追いだしながら、住民の衣装で住民に擬態し、住民の「なか」に身を隠した。それこそが、軍が島のただなかに基地を作りたがる理由である。

 

やたら武器をふりまわすよりも、明日を見すえ一歩を歩みだす方が、よほど勇気がある人間の資質だということ、そのことをちゃんと知っておかなければ、人の世は、戦さと憎悪で腐敗する。

 

父の日、

日本中の父たちに考えてほしい。

 

本当の、生命を守るための勇気とは。

 

サイパン - 戦場の父と子

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TO THE RESCUE -- Filled with horror stories by the Japanese, Tinian natives, fearful of capture by the Marines, hid in the caves and dugouts in the hills. Members of a Marine patrol that had been hunting isolated groups of Japs, remove this tiny girl from the debris of a shelter in which she and her father had been hiding for weeks.
救助へ―― 日本兵から恐ろしい話をたくさん聞かされ海兵隊に捕まるのを恐れたテニアンの地元民は壕や丘の塹壕に身を潜めていた。孤立した日本人たちを捜索していた海兵隊のパトロール隊が、父親と一緒に何週間も隠れていた小さな女の子を穴から引っ張り出している様子。

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

 

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米国海兵隊: JAPANESE POW -- This Japanese father of a small girl he holds in his arms, chews up some candy Marines have given him and places it in the baby's mouth. They have had no food since the Marines have landed.
日本人捕虜――腕に女の子を抱えて、海兵隊員が与えたキャンディーを口で噛んでやわらくしてから赤ちゃんの口に入れる父親。彼らは海兵隊が上陸して以来何も口にしていない。テニアン  1944年8月1日

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

 

子どもを救出するため、その父親を射殺する、とは。

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 米国海兵隊: Our men had to kill the father because he would not give up himself or his baby. The father was about to throw the child into the ocean when Marines stopped him and saved the baby from a watery grave.
父親が子どもと投降しようとしないため、我々の隊員はやむなくその父親を殺した父親が子供を海に投げ込もうとするのを海兵隊が阻止し、水中墓場からその子を命を救った。 サイパン  1944年7月

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

 

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海兵隊: JAP ORPHAN -- This little lad was rescued by the Marines just as his Jap father was about to throw him over the cliff rather than give up to the Marines. Marines gave the lad water, food and candy but he seems all alone.
日本人孤児――海兵隊投降するよりはと父親が崖から放り投げようとしたところを海兵隊員によって救われた子供。海兵隊員は彼に水、食料、キャンディーを与えたが、一人ぼっちで寂しそうだった。 1944年7月9日 撮影者:Sgt. R.B. Opper

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

 

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米国海兵隊: CIVILIAN POW -- A Marine interpreter questions the father of the girl and discovers that the Japanese soldiers have told him that Americans would cut their throats.
収容される民間人 ―― 少女の父親を尋問し、日本兵アメリカ人は彼らの喉を掻っ切ると伝えていたことを知る海兵隊通訳兵テニアン 1944年7月30日

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

 

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公文書館・仲本和彦班長「(米軍から)尋問を受けて、米軍に囚われたら首を切られるという風に自分たちは(日本兵から)信じ込まさせられていたという説明してる様子」

サイパン・テニアンの戦争 米軍撮影の写真320点公開 – QAB NEWS Headline

 

米軍はサイパンテニアンでの民間人の集団死の現実に直面し、日本軍が徹底した恐怖と憎悪の情報操作で人々を心理的に統制していることを知る。

 

ゆえに米軍は沖縄戦では、ビラなどの心理戦 (psychological warfare) に力を入れた。

 

しかし日本の民間人がサイパンテニアンの戦争から学んだ悲しい真実は、日本や沖縄の市民に知らされるどころか、「玉砕」といった宗教的なレトリックで美化され、さらなる統制に利用された。

 

サイパン島では、日本の民間人約2万人のうち、約1万2,000人が米軍によって収容され、生き残った。また軍人1,000人、朝鮮人(飛行場建設などの労働者)捕虜1,300人も出ており、彼らは別々に収容され、軍人はアメリカ本土やカナダの収容所に送られた。日本軍は2万3,811人が戦死し、921人が捕虜となった。

サイパン戦で死亡した日本人(軍人と民間人の総計)は、3万3,000人で、生き残って捕虜となったのは約1万7,000人である。つまり、サイパン島攻防戦での「軍民全員玉砕」は、事実ではなく、捕虜を出さないことになっている日本軍の “名誉” を守る建前の「玉砕」宣伝であった。ただサイパンにおける日本軍兵士の生存率は3.7%(死亡率96.3%)となっており、殲滅(皆殺しにしてほろぼすこと)状態であったことに変わりはない

浅井春夫「沖縄本島の孤児院前史としてのサイパン孤児院の教訓沖縄戦以前の戦闘経過と占領政策の実験─」(2013)

 

 

 

 

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