今日はナナサンマルの日。
1978年7月30日午前6時、
沖縄の道は右側通行から左に切り替えられた。
復帰後6年たった1978年7月30日午前6時、米軍施政下から続いていた「車両右側通行」が、左側通行に 変更 されました。実施の日付にちなんで、「ナナサンマル」と呼ばれるこの事業は、海洋博と並ぶ復帰後の一大事業として、多くの県民に記憶されている出来事です。
その沖縄の道をふりかえってみたい。
沖縄戦と軍道の建設
1945年、沖縄戦と1号線 (現・国道58号線)
北に行くにつれてスピード感がぐりぐりくるね。
この国道58号線は、かつては軍道1号線と呼ばれていた。
米軍は、1945年4月1日に沖縄島に上陸するや否や、すぐさま戦争と基地間移動に必要な道路インフラ整備にとりかかる。
道路と橋の工事は沖縄作戦の中で最も優先された。「上陸日より海辺と岸の集積所からの道路が改修され、その後、主要な力点は、師団や軍団の主要補給路、恒久的ならびに半恒久的な補給施設と建設中の飛行場への道路におかれた。港と海岸が開発されるにしたがい、そこへの道路も開発された」。
《「暴力と差別としての米軍基地 沖縄と植民地ー基地形成史の共通性」(林 博史/かもがわ出版) 83-84頁》
上陸した米兵がまず実行したのは、道路の確保でした。「沖縄侵攻作戦計画書」(アイスバーグ作戦)には「それぞれの戦闘地域内において、35トン 荷重の負荷に耐える全ての主要交通道路の建設、再建工事及び修理担当の義務を負う」と記されています。
1945年時点で米軍が整備拡張した道路地図はこちらからダウンロードできます → Naval History and Heritage Command Road Map (1) / Road Map (2)
米軍が道路整備を始めたのは上陸後すぐであり、戦後からではありません。戦後も米軍の統治に必要だったため整備をすすめたのです。
軍道は「米軍による米軍のための」道路として建設されたものでした。右側通行の左ハンドルです。
米軍は上陸してすぐに一号線と呼ばれる沖縄縦断道路 (trans-island highway) に取り掛かる。
One of the many road signs on Highway No. 1, Okinawa, U.S.A.
1号線に数ある道路標識の1つ。(1945年)
工兵隊は珊瑚礁岩を使い、あるいは新しく掘り起こして石をとり、砂利を運び、こわされた村落から砕石を採り、石灰岩を使って主要道路を拡張し、舗装した。橋で幅が狭すぎたり、アメリカのトラックや戦車を渡すには弱すぎるものは、臨時的に野戦用ベイリー・ブリッジで架橋した。これは簡単に組み立てたり、取りはずしたりできるものである。』(99-100頁)
Highway Number One, Okinawa, USA, was often a mass of mud due to heavy rains. Traffic had to keep rolling, so the engineers worked with their bulldozers while the traffic moved by, leveling the deep ditches.
【和訳】 激しい雨のため、頻繁にぬかるみだらけになった1号線。円滑な交通を維持するため、車列を進めながら工兵隊員はブルドーザーを使って深い溝を平らにならした。
撮影日: 1945年 5月
住民の強制収容
一方で米軍は基地建設のため、住民を収容所から収容所へと転々と強制移住 (relocation) させた。炎天下で歩く住民の列は、時には一マイル (1.61km) にも及んだ。
A mile long line of Okinawan men,women,and children plods along a new military highway on their native island. They are moving their village,stick by stick,to a new location. 【和訳】 地元にある新しい軍道路をゆっくり進む沖縄の男性、女性、そして子供たちの長い列。村を去り、新しい地へ向かう 撮影日: 1945年 7月 1日
1951年、米国統治下で沖縄群島道路条例
1951年9月に「沖縄群島道路条例 」が 公布され、米軍は道路インフラを3つに分けて管理した。
① 軍道路
② 群島道路 (後の政府道)
③ 市町村道路
「軍道路」とは米国軍司令官 が認定した道路で、部隊の移動や、 軍需物資を運搬する軍の大型車両の通行に適したものとされていた。
軍道路の幹線は、片側二車線の路側付きの 簡易舗装 (コーラル敷)の直線道路で、 中央分離帯が設置されていないことから、当時、「軍用機の滑走路に使用するための道路で、コーラルの下に鉄板が埋められている」とまで噂されていましたよ。
Views Okinawa:Highway #1Views Okinawa:Highway #1【和訳】 沖縄の景観:1号線撮影地: 撮影日: 1967年 6月
沖縄の道路では、左ハンドルの車 (沖縄仕様の日本車や外車) が多く走り、バスも左ハンドル。乗り降りのドアは右に付けられていた。
国道58号線を走行する左ハンドル右ドアの沖縄バス。
右側通行時代の1975年(昭和50年)に海洋博新車として導入された458号車☆このバスは左側通行仕様に改造されナナサンマル後も使用されていました。
写真でつづる 那覇戦後50年 1945-1995/写真番号137/P53/右側通行。/730以前
米軍が核兵器や化学兵器を輸送する
沖縄の道はまた、米軍が県民には知らせぬまま秘密裡に核兵器や化学兵器を持ち込む道でもあった。
以下の写真は、白昼堂々、県民が知らないことをいいことに、具志川市の市街地中心をなんの覆いもなく輸送される核弾頭搭載用巡航ミサイル「メースb」。頭上の送電線をぎりぎりクリアしたと米軍関係者のキャプションは伝える。
写真の奥の建物には具志川村農業協同組合とある。現在のJAおきなわ具志川支店と同じ位置であれば、嘉手納から県道8号線を通って現在のホワイト・ビーチ地区にあったメースサイトまで輸送された際の写真と思われる。
A TM-72 Mace missile is trundled through the Okinawa city of Gushikawa in the early 1960s in a rare open display.
1960 年代初頭、TM-72 メースミサイルが沖縄の具志川市をなんのカバーもない状態で走り抜ける。
The Cuban Missile Crisis: The View from Okinawa | History News Network
米軍の元ミサイラー (ミサイル管理部隊) はこの写真をこのように記述している。
A TM-76B (CGM-13B) barely clears an overhead power line at the village of Deragawa enroute to a launch site from the missile maintenance area, Kadena Air Base, Okinawa.
TM-76B (CGM-13B) が、沖縄の嘉手納基地にあるミサイル管理区域からミサイルサイトに向かう途中、デラガワ (平良川) で頭上の送電線をかろうじてクリアするところ。
1971年の毒ガス兵器大量撤去「レッドハット作戦」では、毒ガスを積んだ車両が 24号線(天願桟橋への途中)を延々と続く。
【原文】 Red Hat Operation, Okinawa, Highway #24 (Enroute to Tengan Pier)
撮影地: (沖縄市知花〜具志川市天願)撮影日: 1971年 9月
1978年7月30日午前6時「ナナサンマル」作戦
「人は右、車は左」へ
沖縄が軍政下から日本に返還され、国は一国一交通方法という国際ルールから1975年に沖縄の交通方法を左側に変更することを決め、1978年7月30日午前6時、交通方法変更(人は右、車は左) を行った。
この7月30日の道路進行方向変更は、730 (ななさんまる) と呼ばれている。
昭和生まれの人は必見、懐かしの CM も見られます。
さようなら729バス
ナナサンマルの朝から、左ハンドル右ドアのバスも一斉に右ハンドル左ドアの「730バス」に切り替えられる。
牧港湾の宇地泊にあった米軍基地「キャンプ・ブーン」の跡地、7月30日朝の登場まで、左側通行用の新バス579台が出番待ち。
1カ月後の730に向け、左側通行用の新バスが続々入荷。本島内用944台のうち590台がずらり=1978年6月29日、宜野湾市・米軍キャンプ・ブーン跡
730バスの導入をもって退役した左ハンドルバスは「729バス」と呼ばれましたね。海外に輸送されるまでキャンプ・ブーンに待機しました。
ナナサンマルを境目に、進行方向が変わったことで、それまで北部に行く側にあった釣具店や商店が、南向きになってしまうなど、地元の商業にも影響が少なくなかった。
嘉手納ロータリー、糸満ロータリー、浦添 宜野湾の58号線沿い、那覇の開南交差点などの商店は、方向が真逆になることで大きな影響を受け、また本土からの中古車が沖縄で多く販売されるようにもなった。
沖縄の平和な明日に続く道は ?
このように、沖縄戦から米軍統治下にかけて、沖縄の道は米軍のために作られた。
今はどうだろうか。
沖縄道路の風物詩なのか。国道を渋滞させ、真っ黒な排気ガスをまき散らして道を占領する米軍の大型車両。
まったく珍しくない風景。
そして、その究極の形がこれだろう。住民無視で建設を強行し慢性的な渋滞を押しつける。
この渋滞は、地域住民をまるで無視した暴力的な工事で、一気に大量の資材や土砂を搬入しようとする暴挙から起きている事なのだ。
県民の圧倒的過半数が、
新たな米軍基地である辺野古新建設に反対しています。
それでも国は、県民の反対を無視し、大量の工事車両を送り込み、急ピッチで米軍基地建設を強行しています。
ところが工事をする側も、警備員を大量に雇っているにもかかわらず、渋滞解消努力を一つもしない。通行車両を足止めにしたまま。
こんな工事現場、本土にありますか !?
本土では、デモや何らかの事故で引き起こされた渋滞の場合は、警察が交通整理をし、片道通行の誘導をして市民のために往来を確保する。それが「警察の役目」である。
ところが沖縄米軍基地の建設現場では、わざと交通整理もせず、違法トラックの取り締まりもせず、ただただ抗議している人たちを強制排除し、カメラを回す。
こんな現場は、本土にありますか !?
県民の一般車両よりも、基地建設の工事車両を優先し、
そうして、警察は、米軍基地建設に対して抗議はするなという無言の圧力を住民にかけ続けているのです。
戦後も変わらない、米軍基地のための
米軍基地と米軍基地建設を優先する沖縄の道路事情。
はたして沖縄の道は
県民のための道になったと言えるでしょうか?
沖縄の明日へと続く道は
どちらに向かっているのでしょう。
沖縄のペーヴメントは
平和な明日へと続いているのでしょうか。
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製作:シネマ沖縄 企画:沖縄県土木部
1977年 カラー 20分44秒
沖縄県の道の歴史をたどりつつ、7・30の変更を記録する。7・30は、県民にとって何であったのか。アメリカ世から大和世へ。