米空軍、うるま津堅沖で通知なく降下訓練=「伊江島集約」を無視 | 女性自身
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【シリーズ沖縄戦】74年前の今日
1945年4月24日 『津堅島の悲劇・前夜』
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今も米軍がよく無断で
パラシュート降下訓練を行う津堅島。
かつて津堅島には、
日本守備軍約160人が配備され陣地を組み、
それに地元の防衛隊約40人、女子学生も約30人ほどが加わり、拠点となる壕にいた。
これまでも見てきたように、
慶良間列島、伊江島、津堅島… 、
日本軍の駐屯地となり要塞化していた島は、
軍と住民とが渾然一体となって
ことごとくが
おそろしい戦禍に飲み込まれていった。
また幾つかの場所では
日本軍による虐殺事件も起こった。
出口なき島のなかでは
集団自決と住民虐殺はコインの裏表だった。
74年前の今日、
日本軍の部隊は、まだ夜が明けぬ暗い時間帯に、米軍の前線めがけて千発以上の砲弾を放った。
暗闇と濃い霧、千発もの砲弾の煙で一帯の視界は不良となる、その隙に、第1防衛線にいた日本軍は、第2防衛線まで撤退した。
首里城の地下に置かれた第32軍司令部の第2防衛線は、映画にもなった米軍兵が活躍した前田高地一帯も含まれる。
組織的戦闘が終わったとされる6月23日まで、
あと2カ月弱。
日米両軍の戦闘は、
ますます地獄の淵へと吸い込まれていくことになる。