『…中部の収容所の住民の多くは、沖縄戦が事実上終了した後、7月から8月にかけて宜野座や金武、名護など北部に集中させられた。この地域に当時の沖縄本島住民の約3分の2にあたる20万人が集められた。これは日本本土侵攻作戦のために中南部や伊江島を利用しようとして住民を排除したからである。』(180頁)
《「沖縄戦が問うもの」(林 博史/大月書店) 180頁より》
米軍は沖縄に上陸する前から、沖縄の人びと、歴史、文化、風習について、様々な分野の学者に研究をさせ、報告書をまとめていた。
前線に送られた米兵たちは、その内容の要約版を聞かされていた。
米軍の将兵たちが聞かされていた「沖縄人」と、実際に会った「沖縄人」は合致していただろうか。
ある米海軍中尉は、まるで何も感じないかのように働くな人々をながめ、『沖縄人には時間もなく、人生もない』と結論づけた。
そこだけを切り取ると、沖縄の人びとを軽蔑しているような発言だが、
この米海軍中尉は、アメリカ人と沖縄人を比較して、そう述べたようだ。
アメリカ合衆国という超大国は、その建国以来、他国に侵略されたことはないのだが、そのような国の軍人の目には、「沖縄人」は摩訶不思議な人種に映ったようだ。
それは、そうだろう。
もし、アメリカ合衆国に外国の軍隊が上陸し、沖縄におとされた爆弾と同じ量の砲爆撃をうけ、住民が戦闘に巻き込まれ、家族や親族を失ったあげく土地を占領され、敵に労役を義務付けられたとしたら、アメリカ人は、どう反応するだろうか。
米海軍中尉は、沖縄の状況を自分の国と国民に置き換えて考えた時、沖縄人と同じようには振る舞えないと悟ったはずだ。
アメリカのように個人主義的なものの考え方では、到底、当時の沖縄人の行動は理解できなかったのだろう。
アメリカ人だけでなく、どの国の人びとも、沖縄と同じことをされたら、復讐心に燃えるはずだ。
しかし、沖縄人は知っている。
暴力に対し、暴力で対抗しても、なんの解決にもならないことを。
沖縄には、次の教えがある。
チュンカイクルサッテーニンダリーシガ チュクルチェーニンダラン(他人に懲らしめても寝られるが、他人を懲らしめると寝られない)
これは、「自分が殴られて怪我しても寝ることができるが、自分が相手に怪我をさせると心配で寝れないという意。人を痛めつけてはいけないという教え。」だ。
(沖縄方言辞典より: https://hougen.ajima.jp/e3924)
この教えがあるゆえに、沖縄人は今も苦しみ続ける。
沖縄の人びとが歩んできた歴史の、どの時点をとっても、一個人が持つ時間では解決できない、一個人の人生のなかではどうにもならない、それくらいの大きな勢力と、大きな問題を抱えてきた。
しかし、暴力で解決しようなどとは考えない。それが「沖縄人」だ。
決して『沖縄人には時間もなく、人生もない』わけではない。
抱えているものが、途方もなく大きいのだ。
その大きさは、個人主義のアメリカ人の感覚ではなかなか計れないのだ。