石川収容所 - 戦争はあらゆる日常を破壊していく

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【シリーズ沖縄戦】74年前の今日
1945年5月7日 『収容所の青空学校』
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沖縄戦のを生き抜いた者たちにとって
「戦後」が始まったのは、いつだろう。

 

日本軍の組織的な抵抗が終わったとされる、
1945年6月23日なのか。

 

沖縄戦が公式に終戦となった
1945年9月7日だろうか。

 

鉄血勤皇隊の少年兵だった元・大田昌秀知事が投降したのも、北部の宇土部隊が投降したのも、
10月になってからだった。

 

一方、占領されていた中北部の地域や慶良間列島などでは、早くから収容所が設置され、米軍管理による収容所生活が始まっていた。

 

人口2000人あまりの静かな農村地帯だった、現在のうるま市石川には、およそ3万人の避難民が集められた。

 

74年前の今日、

 

石川収容所では、食べ物を求め米兵に群がる子供たちがあまりに多いというので、それに苦慮した米軍将校は、捕虜となっていた沖縄の教育関係者らに対し、学校の設立を命じた。

 

これが「戦後教育」の発祥の地、
石川学園の開校である。

 

自由にやってくれ、
とアーレン大尉はいったが、

 

軍隊式の号令や、
天皇の詩「御製」を朗読するのは、
勘弁してくれ、
ということだった。

 

米軍が残した記録写真をみるかぎり、

 

青空教室ではあるが、
いかにも開放的で清潔感すら漂う。

 

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AI でカラー化

石川の運動場にいる子供と先生

Children and school teacher in the playground at Ishikawa.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

 

しかし実際には、ひどく衛生的に劣悪な環境で、井戸水が汚染され、マラリヤ赤痢が蔓延。子どもたちや老人たちが次々と命を落とした。

 

沖縄戦の最中、民間人を収容した「石川地区収容所」。戦前、人口2000人足らずの農村地帯だった石川には、およそ3万人の避難民が集められました。

そして7月には今帰仁に避難していた母親と兄弟とこの収容所で再会。北部には食べ物が無く痩せこけた姿だったと言います。

石川正一さん「宜野座から軍のトラックに乗っかって石川の南栄通りの方で降りてきて、初めて「お母さん」って抱きついて泣いたのが思い出がありますね」
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北部一帯から多くの人が集められた収容所は衛生的に劣悪な環境で、マラリヤ赤痢が蔓延。命を落とした人が相次いだと言います。9月に入り、当時5歳だった弟正勝さんも赤痢で亡くなりました。

石川正一さん「あれだけの屋敷の中に200名の人が住んでますよね。トイレが水洗も何もない。もうそのまま穴掘って、そのまま埋めてね。挙句の果ては井戸水に汚水が流れて、真っ赤になって。5歳前後のうちの弟なんかは赤痢で亡くなってね。ちょうどあの時はもうお棺も何もない。亡くなった後は松林に埋めてこうやってやって」

去年、正一さんたちは、石川市の歴史を資料集にまとめました。中には当時の収容所の地図も載っています。

石川正一さん「1.2キロの中にね3万人の。当時の地図ですがね。戦後は3万人の人口まで増えましてですね。この人口増えても住む所っていうのは石川橋から石川中学校のこの間に密集して」

 

戦後70年 遠ざかる記憶 近づく足音 収容所で弟を亡くした男性 – QAB NEWS Headline

 


収容所のなかでも
沖縄戦はつづいていたのだ。