Entrance to compound at Taira.
田井等収容所入口
撮影地: 名護市 (1945年)
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【シリーズ沖縄戦】74年前の今日
1945年7月4日 『宜名真・辺戸住民斬殺事件』
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どれだけの住民が犠牲になったのか
日本兵に殺された住民の数は、我々が想像するよりもはるかに多いのではないか、
日本軍の参謀自らが、沖縄人はほとんどがスパイだと公言してはばからなかったというくらいで、
時の那覇警察署長具志堅宗精氏の話──。五月二十九日午後六時ごろ、高嶺村与座(現・糸満市与座)の山部隊司令部で、軍の要請で警察署長会議を開いたことがあった。会議前の雑談のときにある参謀が「沖縄人はほとんどがスパイだ。毎日米軍のトラックに乗って、米兵たちと行動をともにしている。実にけしからん」と、沖縄の人を非難した。列席の警察署長たちは、しゅんとしてだまりこんだ。島田知事も不快な顔をしてそっぽを向いた。たまりかねた具志堅氏が、「沖縄出身の兵隊も、前線で勇敢に戦っているじゃありませんか!捕虜の身で、米軍に逆らうこともできず、生きるためにやむなく従っているのです」と、不満をぶちまけたことがあると、具志堅氏は話している。
山川泰邦氏『秘録・沖縄戦』(1969年)
1957年5月18日 オリオンビール株式会社の設立 ~ 沖縄戦、地獄の摩文仁から生還した男、いくさで死ぬより生きることを選んだ具志堅宗精 - ~その時、沖縄は~
大田実中将のあの有名な電文は、そのスパイ陰謀論の沖縄人に対するヘイトとデマに対する抗議であったともいわれている。
しかし、日本軍は、沖縄語をしゃべったり、米軍に接触したり、いったん米軍の捕虜になったりするだけでスパイとみなし「処刑」することを、指示していた。
battle-of-okinawa.hatenablog.com
つまり実際にスパイであるかどうかの確認などは必要ない。スパイとみなされれば処刑されなければならないということだ。
あの戦争で四人に一人の県民の命が奪われたが、一体そのなかで、どれだけの罪なき県民が日本軍によって直接的に殺害されたのか、知ることはできない。
むしろ軍は、意図的に「死人に口なし」の情況を作り出していったのだ。
74年前の今日、
四人の住民が日本軍の惨敗兵によって惨殺された。
日本軍の惨敗兵たちは米軍の収容所からでて自分の故郷に向かう家族の後をつけ、そして狙った。
スパイだと認定した根拠は、彼らが住民が米軍の収容所に収容されていたというだけのものだった。
この伊沢曹長らは北部でほかにも住民虐殺を繰りかえしていたようで、
7月22日にも大宜味村で民家を襲い、住民に目隠しをし、両手を後手に縛りつけ、銃剣で刺殺したと伝えられている。
情況を客観的に把握すれば、もちろん既に日本兵は完全な「惨敗兵」でしかなく、
沖縄守備軍といいながら沖縄を守ることができなかった軍のせいで、住民が米軍に殺されたり捕虜にされたりしているわけだが、
いったいどんな「正義」が彼らをこんな「狂気」に駆り立てるのか。
国体のため死ぬこと、死を強要すること、
それ自体を美化し傾倒していく、
その残虐な精神的風土は、
いまもまだ日本に犇めいているのではないか。
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