炎天下の解剖台

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米軍の撮影団が記録したハンセン病国立療養所「沖縄愛楽園」の解剖の映像から

1947年7月7日撮影

 

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【シリーズ沖縄戦】74年前の今日
1945年7月10日 『沖縄愛楽園』
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日本は「らい予防法」という名の下で、1996年まで公然とハンセン病患者の隔離政策を続けてきた。

 

この国はなぜこのような非人道的で醜く残虐な法律を長く引き伸ばし続けてきたのか、

 

 隔離政策と無関心

 厚生省(現在の厚生労働省)は64年発表の「らいの現状に対する考え方」でらい菌の伝染力はきわめて微弱と認めました。すでに特効薬も存在しているから、この頃に何らかの動きがあってよさそうなものでした。熊本地裁判決でも「隔離規定の違憲性は、遅くとも1960年には、明白になっていた」と指弾している通りに。

 しかし政府の動きは療養所の待遇改善という微温的なものに止まり「きわめて弱い伝染力」と「治る」の両見解は国民の恐怖感や偏見を和らげた半面で無関心を呼び起こしたようです。「滅多にかからず、治る病気」ならば自分には関係がないと。しかも患者・元患者は生活圏から外れた施設に収容されていて回りにいないため存在すら忘れていきました。

ハンセン病家族訴訟判決と「救らいの父」光田健輔(坂東太郎) - 個人 - Yahoo!ニュース

 

四日前、この日本の国家的な罪を問う判決が下された。

 

 根本匠厚生労働相は9日の閣議後の記者会見で、安倍晋三首相がハンセン病元患者家族への賠償訴訟で控訴を断念したことについて「通常の訴訟対応の観点からは控訴せざるを得ない側面があるのも事実だ」と指摘した。その上で「首相から控訴断念の方向で至急準備に入るよう指示があった。早急に具体的な対応を検討したい」と語った。

 山下貴司法相は会見で「元患者と家族に寄り添いたいという思いによる決断だと思う。指示に従って至急準備を進めていきたい」と述べた。 

ハンセン病訴訟「通常なら控訴」=根本厚労相 (2019年7月9日) - エキサイトニュース

 

根本厚労相が「通常なら控訴せざるを得ない」などと言いながらも総理が控訴を断念したのは、「通常」ではない選挙期間中だったからと考えるのは穿ちすぎだろうか。

 

74年前の今日、
米軍は一枚の奇妙な写真を記録している。

 

7月の炎天下のもと
空爆された瓦礫のただなか、野外で解剖を行う白衣の者たちのすがただ。

 

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/344752.jpg

ハンセン病療養所で検死を行う早田医師とスタッフ。検死テーブルだけが空襲の被害から逃れた。1945年7月10日撮影

Dr. R. Hayata and staff perform autopsy on leper patient in leper colony. The autopsy table in the only remaining part of the autopsy building which was destroyed by bombing.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

 

1944年5月頃から日本軍主導でハンセン病患者の大収容が始まった。

 

その軍に全面協力したのが愛楽園園長の早田皓であり、また厳しい園内の強制労働によって様々な使役をおこなわせ、そのせいで手足の切断を強いられたりする者、そして死亡者の数も急増した。

 

ところがいったん米軍に占領された後は、早田はすぐさま無抵抗で園を米軍に明け渡すのである。

 

そのことは、彼が医学者として海外の捕虜や患者の扱いを以前から熟知していたことを意味するのではないか。

 

ともかく今度は米軍に全面協力し、

 

身内の手記によると、早田は米軍医師団と「交流」を深め、医師団は愛楽園に撮影団を派遣し早田らの解剖の様子を撮影、それらは本国の医科大に送られたのだという。

 

一体どのような交渉がおこなわれ、どのような目的でそれらの映像が使われたのか。

 

その後も米軍は隔離政策を続け、
遺体の解剖は1980年代まで続けられた。

 

日本に復帰しても、強制収容された患者たちにとっての日常は変わらず、隔離政策が続くだけだった。

 

愛楽園の収容者は、米軍の空爆ではなく、むしろ軍の優生思想によって命を奪われていったのだ。

 

ご覧ください。⇩

1945年 7月10日 『沖縄愛楽園』

neverforget1945.hatenablog.com