栄丸遭難事件
基隆港。対岸から埠頭の倉庫群を眺める。基隆駅の辺りは明治町、その先、北東に向かって、大正町、昭和町、仙洞町と続いていた。『台湾写真大観』より
終戦後の1945年11月1日、台湾から宮古島へ向かう一隻の船が「栄丸」がエンジン故障のため座礁沈没し、この船で宮古島に帰還しようとした大勢の人が亡くなった。
その数は、127人とも183人ともいわれているが正確な数すらわかっていない。なぜ人々は「廃船寸前」の「栄丸」に殺到したのか、なぜ犠牲の実態が不明なままなのか。
「栄丸遭難事件」の背景を理解するためには、日本軍による宮古島の土地の接収と基地建設にさかのぼる必要がある。
日本軍が宮古島にやってくる
土地の強制接収
日本軍は宮古島に三カ所の飛行場 (平良飛行場・野原飛行場・洲鎌飛行場) とその他の軍事拠点を建設するため、土地の強制接収を始めた。
土地代は形の上ではもらいました。だが、強制的に凍結貯金ですね。未だ、実質的支払いというのはうけていません。
生前、(栄丸遭難事故で亡くなった) 父はよく海軍飛行場用地にとられてしまった七原の土地代について、「入口から入って来て金を渡し、出ていくとき金をとりあげて出口から出ていく」ようなやり方だったと言っていました。地料は一応計算して渡しはしたが、その場でそっくり強制貯金をさせられ、一銭も手にはわたっていない。いわば土地は強制的にただどりされたとも言えます。
1万人の強制疎開
3万人の兵士が島にやってくる。島の食糧危機を予見してか、強制疎開が始まる。昼夜兼行の飛行場の建設作業などに必要な労働力以外の子どもと女性ばかりが「疎開」という名で台湾に送られた。しかし、第九師団の転出など、台湾そのものが敵の上陸に備えるなかでの、この「台湾疎開」は、島民の移送が単に宮古島の日本軍の食糧確保のための「口減らし」に過ぎなかったことを暗に示すものである。
台湾疎開は、1944年7月の臨時閣議によって決まったもので、その計画は、南西
諸島の奄美大島と徳之島、沖縄本島、宮占、石垣の老幼婦女子を台湾に疎開させる
というものであった[防衛庁防衛研修所戦史室1968:63]。疎開規模は10万人で,
このうち、台湾へは2万人という内訳であった[三上2004:23]。松田良孝「台湾沖縄同郷会連合会の実態と今後の研究課題 : 「台湾疎開」に焦点を当てて (2011)
(宮古島の) 県外への疎開は、昭和19(1944)年8月から10月にかけて行われ、疎開者はおよそ1万人。ほとんどが台湾への疎開であった。
昭和十九年八月、非常に暑いときでした。輸送船三隻で船団をくんで台湾に疎開しました。一隻に百五十人ていどずつ乗っていましたが、年よりはたった一人男の人がいただけで、あとは高等科以下の子どもと女ばかりの疎開でした。
(戦前の) 基隆港と家並み。整然とした道路に沿って赤煉瓦建築が並ぶ商店街。義重町から日新町にかけての様子。『日本地理風俗大系』より
戦後の「琉球難民」
台湾で棄民 - 壊れた倉庫で生きのびる
生活費や食糧の確保など疎開者に対する公的な援助は、終戦が近付くにつれて機能しなくなり、戦後、疎開者たちは棄民化していく。…
終戦は台湾疎開の終わりを意味しなかった。日本の敗戦で沖縄は米軍に占領された。一方、台湾は中華民国の統治下に置かれる。同じ日本だった沖縄と台湾の分断。疎開者たちは沖縄に戻れなくなる。
帰還事業から取り残され、多く女性と子どもたちばかりで、身寄りもなく、どうやって暮らしていけるというのだろう。一刻も早く、父や夫のいる宮古島に帰りたい。支援も、ほとんど先細り、身を寄せたのは、屋根も壊れた倉庫の一画だったという。
なぜこんなひどいめにあわねばならなかったか、いまから考えた馬鹿らしいとも思うし、また止むをえなかったとも思います。キールンの十一月といえば全然太陽をみない雨ばかりの季節です。とういったところで知人はおらず、とめてくれる家もない。たくさんの人が近くの、空襲で屋根もない煉瓦の壁ばかりの廃屋で一時しのぎをするのです。雨が降るとそのまま直通でぬれ、そのうち土間には水がたまって眠るところがせばめられる。仕方がないので荷物をぶちこんで雨水を避け、煉瓦の壁にもたれて何とか睡眠をとるありさまでした。そればかりか時には武装した中国兵が来てピストルでおどし、荷物を奪っていく。ちょっとでも抵抗すればどうなるかわからない。毎日のように誰だれが殺されたという話しが聞こえてくる。そんな船待ちのあけくれでしたから、誰もが一日も早く宮古へ帰りたいと思っていたのです。
終戦後、台湾から宮古島に帰る人たちは、海のそばに爆撃された基隆港の倉庫群があったので、屋根もないようなコンクリートの廃屋でしたが、宮古島へ引き揚げるまでの間はそこに滞在していました。中国大陸から進駐軍(国民党軍)が上陸することになり、その時には問題が起きないように、日本人は全員基隆港から少し離れた場所に移動するように言われたので、私たちはそこへ行きました。移動したのは、進駐軍が基隆へ上陸した日だけでした。進駐軍が通り過ぎた日の夕方には、また元の場所に戻りました。
人々はなんとか宮古島に帰ろうとした
栄丸は戦時中は基隆のドックにあったものを他府県の人たちがよせ集めの器材で修理し、闇船に仕立てたということでした…
何日間か船が出るのを待っていると、船の機関長を務めた経験のある私の従兄弟が来て、船に詳しい彼はこのように言いました。栄丸は丘で野ざらしにされていた廃船寸前の船で、船の数が足りないために無理矢理使っているようなものだから、危険なので乗らない方が良いということでした。それを聞いて私は、叔父にも栄丸に乗らない方が良いと伝えました。叔父たちも、栄丸には乗らない事にしました。しかし、私たちの荷物はすでに栄丸に積んでいたので、荷物番のため仕方なく私だけは栄丸に乗りました。
ボロ船でも乗せてくれればありがたい・・・。栄丸が出たあと、港まで来て乗せてもらえなかった人びとのなかには非常に嘆いた人もいたというほどに、誰もが早く帰りたかったのです。
1945年11月1日 - 出港から一時間後の悲劇
国民軍のきびしい警戒の眼を盗んで乗船したのが11月1日の夕方六時ごろ。一時間後にはみつかることなく一路宮古に向けて出港しました。… 栄丸は出港後およそ四十五分ていどで外に出ました。波が非常荒く、父は危険だから引き返そうと言い出して、引き返すことになりました。右舷へカーブしたと同時に、焼玉エンジンの玉が切れてエンジンが止ってしまいました。船はそのまま左舷(後方)へ流れはじめたのです。
基隆を出て約1時間。機関が故障した。強い風にあおられ、西へ流された。高波を受け、右に左に大きく傾く。「危ない! 引き返せ!」。怒声が響き、船内はパニックに陥った。… 洲鎌さんは、これまで家族の最期を話さなかった。家族6人を一度に失った苦しみ。基隆で聞いた冷たい言葉が追い打ちとなった。「あんな古い船で宮古まで行ける訳がない」。
栄丸は30トン弱の小さな船でした。機関の故障が無かったとしても、大変な事故になっていたと思います。船の大きさに対し多くの人が乗っていたので、あの船に乗ったことはとても危険なことだったと思います。不思議なことに、私には助かった後の記憶がほとんどありません。遺体の片付けをしたことは覚えていますが、誰が私をどのように宮古島へ連れ帰ったのかは全く覚えていません。
私はその夜のうちに栄丸遭難をきいたのでさっそく翌朝現場にかけつけることができたのです。下地村出身の人だけをえりわけて引揚げるということはできるわけもなし、みえるものは片っぱしから引揚げて片づけました。死体を片づけるだけでも八日間もかかりました。
栄丸遭難事件のその後
土地を奪われ、強制疎開させられ、家族を奪われた。
僕の家族は僕と母の二人だけがたすかり、父も兄も弟二人も、子守りもみな死にました。末の弟の博は、母がおんぶしていたが、母兵隊に救いあげられるときまではちゃんとおぶわれていたのに、母の腕を引いて救出するさいに帯ごとずるずると落ちていったと、あとで聞かされました。母はそのときのの泣き声が耳にこびりついていると言って、そのまま気が狂ってしまい、一年余も半病人の状態がつづいていましたが、現在もなお海をみること、船に乗るのを嫌がり、当時の遭難もようについてもまったく語ろうとしません。父と博と子守りのシゲなど三人の死体は傷だらけになって発見されましたが、兄の繁と上の弟の光雄はとうとうみつかりませんでした。
生前、父はよく海軍飛行場用地にとられてしまった七原の土地代について、「入口から入って来て金を渡し、出ていくとき金をとりあげて出口から出ていく」ようなやり方だったと言っていました。地料は一応計算して渡しはしたが、その場でそっくり強制貯金をさせられ、一銭も手にはわたっていない。いわば土地は強制的にただどりされたとも言えます。それも国をあげての戦争ということだから仕方がなかったとしても、いまはもう戦争は終ったのだから、その代償というか、そういったものを国は考えてくれてもいいのではないか。日本はGNP世界第二位といわれ、世界でも大きな国になったが、その裏にはこのような大きな悲劇があるということをかえりみようともしないことは問題だと思います。一 戦争が終って必要がなくなればいつでも土地は返すとはっきり約束したと言って、いまも軍との約束をおぼえている人もいるのに、こんなにはっきりしていることさえ解決しようとせずに、何がGNP世界二位かと言いたくなる。政府はもっと考えてもいいのではないですか。
栄丸の遭難は、戦争中のことではないので、何の補償もされていません。直接弾丸にあたらなかったというだけのことであって、国の政策にしたがって土地をとられ、台湾に強制疎開させられた。戦争は終っても国が引揚げのめんどうをみてくれないので、自力で帰えろうとして遭難したのです。戦争の犠牲者であることには変りはないはずです。母の立場からすれば昔から住みなれた家も屋敷も知もとられ、そのうえ夫と二人の娘を同時に失ったのだ。せめて母が生きているうちに、以前の土地だけでも返してもらいたかった。母は悲しみのあまりろくに外出もせず、数年後に死んでしまいました。
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