1945年9月7日 琉球列島の降伏調印式 - 沖縄戦はこの日、第32軍の降伏調印式でもって「公式」に終了した

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琉球列島の降伏調印式。沖縄本島にて。先島群島の司令官(指令部は宮古島にある)納見敏郎中将 (第1調印者)。(1945年9月7日撮影)

The signing of the surrender papers for Ryukyus at Okinawa. Lt. Gen. Toshiro Nomi signs for surrender of Sakishima Gunto, Miyako Shima (1st signer).

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

1945年9月7日、

 

沖縄戦は、先島諸島奄美諸島に布陣していた第32軍の部隊司令官らが越来村森根(ごえくそん もりね / 現・沖縄市、嘉手納基地内)において、米軍が用意した降伏文書に署名したことで「公式」に終了した。

 

その第32軍の代表者らは、米軍が慶良間列島に上陸し、その後に沖縄島や伊江島で展開したような、そんな「沖縄戦」を経験しなかった者たちだ。

 

そんな者たちが、73年前のきょう、ここ沖縄島を含む南西諸島を米軍に差し出した。

 

米軍が用意した「降伏文書」は全て英語。

 

英語の「surrender」は、日本語で訳す際に「降伏」にもなれば「譲渡」にもなる。

 

そのことから、日本軍は単に戦争の「負け」を認め、敵に「降参」したのではなく、

 

南西諸島における全てを連合国軍に「差し出した」、

 

南西諸島の全てを「放棄した」という解釈にもなり得ることが指摘されている。

 

 

1945年 9月7日 『第32軍の降伏』

neverforget1945.hatenablog.com

 

さて、

 

当クラブが3月23日から毎日、配信し続けた今年の「沖縄戦シリーズ」は、本日の公式な「沖縄戦終了の日」をもって、今年の配信を終了いたします。

 

昨年からブログという形での配信を開始したことで、「沖縄戦」の実態を幅広く紹介することができました。

 

沖縄には、「カタブイ」という言葉があります。

 

ある一定の場所だけ雨が降る現象、いわゆる、スコールまたは通り雨のことを、沖縄では「カタブイ」といいます。

 

「カタブイ」があった日は、ある場所ではザーッと雨が降るものの、その近所では太陽が照りつけて雨粒も落ちなかったりするのですが、そんな日の場合、

 

今日は雨が降った、今日は晴れていた、どちらも正しいことになります。

 

沖縄戦に関しては「カタブイ」があった日と同じで、ある場所ではこうだった、でも、別の場所ではその逆だったとか、

 

自分はこういう経験をしたが、別の誰かは違う経験をした…というように、それぞれの話は正しく、そのとき「あった出来事」なのです。

 

ある証言だけが正しく、別の証言は間違っているということは、ありません。

 

沖縄戦があったとき、

 

地上戦を経験した人もいれば、本土に疎開したことで、地獄を知らずに済んだ人たちもいます。

 

日本や天皇を恨んだ人たちもいれば、喜んで戦争に加担した人たちもいます。

 

軍の命令に素直に従った人たちもいれば、勝手に「そんたく」した人たちもいます。

 

兵隊に親切にされた人たちもいれば、脅されたり、スパイ容疑をかけられたり、中には虐殺されてしまった人たちもいます。

 

学徒隊として自ら戦場に行った学生もいれば、親に反対されて入隊しなかった生徒もいます。

 

最後まで「お国のために」と戦った兵もいれば、どさくさに紛れて戦線を離脱した兵もいます。

 

「カタブイ」のように、同じ日に、砲弾の雨が降り続けた地域もあれば、米軍が降らせる鉄の雨が止んでいた地域もあるのです。

 

これまで、私たちが聞いた「沖縄戦の話」だけが正しいとは限りません。

 

73年前、沖縄にいた全ての人たちの身に起きた出来事、それら全てが沖縄戦の一片です。

 

沖縄戦の全容を知るためには、

 

当時の沖縄県民、日米両軍の将兵たち、朝鮮半島から連行された人たちなど、なるべく多くの人たちの体験談や証言を得る必要があります。

 

ブログ内で紹介した内容が、一般的に知られている「沖縄戦の話」と違っていたとしても、どちらかが正しいのではなくて、どちらも正しいのです。

 

ある特定の話だけを何度も聞いたり、発信力がある人たちが語る内容だけを聞いていると、それだけが「ホンモノ」に思えてくるのですが、

 

別の情報や新たな情報を無視し、自分にとって耳触りのいい話だけを選び、それだけを信じてしまうのは、大変危険です。

 

証言者や体験者の多くは、発信力のない、普通の人たちです。

 

学校に招かれて講演することも、メディアが取り上げることも、映画やドラマになることも、ありません。

 

しかしながら、彼らが経験した事のひとつひとつが、沖縄戦の一片なのですが、それもほんの一部であり、全てではありません。

 

戦争で亡くなった人たちや、何も語らずに他界した人たちの体験は、永遠に知ることはできません。

 

今もなお、語ることさえできない人たちの戦争体験には、想いを馳せることしかできません。

 

従って、沖縄戦の全容を完全に知ることは不可能ですが、かけらの一つ一つを集め、全容を知ろうと努力することは可能です。

 

だからといって、証言や体験談だけで、沖縄戦を知ったつもりになってもいけません。

 

沖縄戦の全容を掴むには、戦争の主役であった日米両軍の動向や作戦、両国政府の政策や思惑も知る必要があります。

 

沖縄における米軍基地問題の原点は「沖縄戦」にありながら、私たち戦後世代は、あまりにも「沖縄戦」を知らない。

 

沖縄戦」をきちんと理解してこそ、基地問題に正面から取り組むことができ、解決策を見出すことができるのではないか、と思うのです。

 

フォロワーの皆さん、

3月23日から170日間の投稿、

毎日お付き合い頂き、

ありがとうございました。

 

 

9月7日

オスプレイ不安クラブ

 

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