2017年6月12日 元沖縄県知事 大田昌秀さんの後ろ姿

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この人の背中を忘れないでおこう。

 

大田昌秀 (1925年6月12日 - 2017年6月12日)

 

今日は、元沖縄県知事大田昌秀さんの命日であり、そして誕生日でもある。歴史学者沖縄戦研究者としても、また沖縄県知事としても、彼の原点にあったのは、つねに沖縄への思い、沖縄戦の記憶だった。

 

沖縄が生んだ偉大な歴史学者の軌跡。

  

1945年、沖縄師範学校本科ニ年の時、鉄血勤皇隊として沖縄戦に動員される。

 

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鉄血勤皇隊は13~19の歳で法的根拠無く動員された。沖縄師範学校男子部では引率の教師24人に導かれ生徒386人が戦場に動員された。そのうち生徒226人、引率教師9人、実に6割の学徒が戦死した。

沖縄師範学校男子部 師範鉄血勤皇隊切り込み兵 - Battle of Okinawa

 

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1990年、歴史学者から政治の「現場」へ。

沖縄県知事に (1990年12月10日 - 1998年12月9日)

 

1995年には、「米軍用地の強制使用手続きに関する代理署名」を拒否し国側と対立。

 

 

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職員をアメリカに往復させ、アメリカの沖縄戦関連の公文書を収集する「沖縄県公文書館」を建設

 

当クラブでは沖縄公文書館の画像資料などを基にシリーズ沖縄戦SNS でリリースしているが、それも大田元知事の礎なくしてはありえないものである。

 

思いもかけず県行政の責任者になったときに真先に県立公文書館を設立すると共にアーキビストの養成に取り組み、2人の女性をイギリスとアメリカの大学の博士課程にそれぞれ送り込みました。・・・ とくにアメリカで図書館学の修士号を取得した仲本和彦君を県の専門のアーキビストに採用し、9か年間、米国の国立公文書館に張り付け史資料をマイクロフィルム、写真、映像、デジタル媒体等を用いて収集させました。そのうち最大のコレクションは、米国統治時代に琉球政府の上位機関であった琉球列島米国民政府(USCAR)の文書約350万ページで、国立国会図書館と共同で収集し、1998年度(平成10年度)から各部局ごとに順次公開しています。

大田 昌秀「アーカイブズと私―沖縄の経験から―」カイブズ学研究No.21 (2014.12) PDF

 

戦前、戦中、戦後の沖縄を伝える平和学習の場として「県平和祈念資料館」の建て替えにも尽力。そして、

 

1995年、「平和の礎」を建設。

 

沖縄の歴史と風土の中で培われた「平和のこころ」を広く内外にのべ伝え、世界の恒久平和を願い、国籍や軍人、民間人の区別なく、沖縄戦などで亡くなられたすべての人々の氏名を刻んだ記念碑「平和の礎」を、太平洋戦争・沖縄戦終結50周年を記念して1995年6月23日に建設する。

平和の礎いしじについて

 

1998年の県知事選挙で稲嶺恵一候補に敗れる

1998年2月、政府が普天間基地の返還の条件として沖縄県内で移設という「県内移設」を主張したことに大田政権は激しく対立。対抗措置として自民党は沖縄との経済振興策を話し合う「沖縄政策協議会」を一方的にボイコットしたまま選挙となる。

 

まだフェイクニュースなどという言葉もない時代だが、これ以降、様々な心無い中傷やデマ、印象操作や怪文書などが流されるようになる。また2期目の選挙では、大田おろしの選挙戦で実に三億円という巨額の官房機密費が使われたということだった。それを鈴木宗男議員が証言した。

 

よほどの知恵者が蔭に居るにちがいない。その知恵も、広告代理店の手法が臭う内容だ。と、思っていたら、本当に勝者の背後には大手の代理店が動いていたのだという。

筑紫哲也「自我作古 (170) 沖縄知事選――広告宣伝技術の勝利」『週刊金曜日』第244号 (1998.11.20) Archive

さらに政府が沖縄県への予算支出を締め上げることで「県政不況」を演出し、「9・6%」という失業率を表したポスターを街中に張りめぐらすという大手広告代理店を活用したイメージ選挙を行い、「政府との太いパイプ」を売り物にした経済界出身の稲嶺氏を当選させた。

沖縄県知事選挙への官房機密費流用問題 - 海鳴りの島から

 

小渕内閣は当時普天間基地の県外移設を進めていて、思い通りにならない太田知事は頭の痛い存在だった。選挙は激戦の末、自民党小渕内閣が推す稲嶺氏が知事についた。鈴木元官房副長官によればこの時3億円の機密費が選挙戦資金として稲嶺陣営に送られたという。

 

 

沖縄の選挙にカネと広報戦略と印象操作やデマで介入する日本政府のやり方はここに原点があるといってもいいだろう。

 

参議院議員 2001年7月30日 - 2007年7月29日。

2013年、沖縄国際平和研究所の設立。

 

2017年6月12日、92歳で永眠。

 

ずっと死者たちを弔うことに 人生をかけてきた

 

2017年の今日、6月12日、92歳で死去された元沖縄県知事大田昌秀さん。少年兵、鉄血勤皇隊として経験した、あの沖縄戦摩文仁の丘の激戦。125人のうち生き残ったのはわずか37人。「なぜこういう事態に陥ったのか。もし生き延びることができたら、明らかにしたい」。戦後は研究者として沖縄戦と戦後史を研究。平成2年には沖縄県知事となり、米軍基地の整理・縮小に取り組んだ。「二度と沖縄を戦場にしてはならない」。政界引退後も平和活動に取り組み続けた元沖縄県知事大田昌秀さんの生涯を振り返る。

 

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沖縄戦の今日、小禄半島の海軍司令部壕では、身動きできない負傷兵らに対し「どうか死んでくれーッ」と、泣きながら劇薬の入った注射をうつ軍医がいた。

 

少し離れたところでは、海軍司令部首脳が、次々に自決を遂げる。別の戦地では、米軍が放った火炎により、生きたまま焼かれた日本兵や、砲爆撃をうけてバタバタと倒れ、死んでいった人びとがいた。

 

このような、悲惨な光景を目撃した人、恐ろしい戦闘を経験した人、戦友や家族を失った人が、沖縄各地にいた。

 

一部の人びとが、その重い口を開き、見た光景、体験したことを語ってくれたおかげで、いま、我々は「沖縄戦」を知ることができる。

 

しかし、「沖縄戦」の中にいた大多数の人びとは、その経験を胸の奥にしまったまま、語ることなく、伝えることなく、昨日も、今日も、ひとり、またひとりと、この世を去っていく。

 

沖縄戦」を語ることができなかった戦争体験者に代わり、当時の沖縄の実情を伝えようと、必死で資料や映像を集め、研究し、戦争を知らない世代に伝えようと尽力したのは、今日、亡くなられた大田昌秀氏だ。

 

大田氏の功績や貢献は、この「沖縄戦シリーズ」の投稿では割愛するが、

 

語られることなく、伝えられることなく、この世を去っていった戦争体験者の、彼らの「経験」を少しでも多く掘り起こし、戦争を知らない世代の我々が、知り、学び、後世の人に伝えるという作業を確実にしていくこと、

 

それが、大田氏の「志」であると考える。

 

なので、大田氏の功績だけに目を向けるのではなく、我々、一人一人が「志」を引き継ぐこと。それが、大田氏をはじめ、この世を去っていった戦争体験者への、一番の供養だと思う。

 

 

 

大田さんの後ろ姿を忘れないで、

歩み続けたい。

 

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youtu.be 

敵の米兵よりも日本軍の方が怖かった

politas.jp

 

 

主な書籍

 

 

 ありがとう、大田知事。

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 沖縄が生んだ偉大な歴史学者の軌跡。

 

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