「慰霊の日」は「沖縄戦終結の日」なのか

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慰霊の日の翁長知事

 

いまさらですが、

 

沖縄戦の正式な終結の日とは、日本軍と連合国側の両代表が沖縄で降伏文書にサインした9月7日。

 

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であるなら、沖縄戦終結を記す「慰霊の日」とはいつであるべきなのか、という、そもそも議論。

 

複数の捕虜から聞き取りを重ね米軍は二人の日本軍の軍人の死亡を6月22日午前3時40分と記録している。

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一方で日本軍側は23日未明であると証言している。

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この日をもって沖縄戦の組織的な戦闘は終わった、などとと語られることも多いが、

 

そもそも無線も最終的には機能せず、組織的な戦闘などはその前から不可能だった。

 

また、この二人の軍人の死亡をもって沖縄戦は「組織的に終結した」わけではない。

 

沖縄戦の正式な終結は、やはり9月7日である。

 

慰霊の日ってどんな日? 沖縄県民なら誰もが知っているメモリアルデーには紆余曲折の歴史があった

琉球新報

2018年6月23日 05:00

6月23日。全国で沖縄だけこの日は公休日(土日と重なった場合は振り替えなし)と定められ、国の機関以外の役所や学校が休みになる。

「慰霊の日」

おびただしい数の住民を巻き込んだ地上戦が繰り広げられた沖縄で、組織的な戦闘が終わった日とされ、犠牲になった人たちに祈りをささげる日だ。

毎年、沖縄では県主催の慰霊祭が開かれ、正午になるとあちこちで一斉に黙とうが行われる。甲子園予選を兼ねた高校野球の試合も中断され、球児たちが脱帽して目を閉じる光景は風物詩のようなものになっている。

すっかり県民に浸透したメモリアルデーだが、一方で、制定された由来や変遷を知る人は案外少ない。平成最後の年、慰霊の日の「そもそも」をまとめた。

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初めは6月22日だった!

慰霊の日が公休日として定められたのは、沖縄が米統治下にあった1961年(昭和36年)にさかのぼる。

沖縄戦没者慰霊奉賛会」(現在の沖縄県平和祈念財団)が、「戦没者慰霊の日」を制定するよう琉球政府へ陳情した。

陳情では6月23日を慰霊の日にするよう提案している。その根拠は、沖縄に配備された日本軍の牛島満司令官と長勇(ちょう・いさむ)参謀長が自決した日で、「軍司令部の機能が崩壊および全軍の組織ある防衛戦闘終止で玉砕の日に相当する」とある。

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立法院行政法務委員会議録に記された陳情の内容(沖縄県公文書館所蔵)

その後、琉球政府立法院で「住民の祝祭日に関する立法」が審議される過程で、23日ではなく22日を慰霊の日と決定。他の祝祭日と一緒に公布された。

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1961年に公休日として制定された「住民の祝祭日」。当初、8月15日の「平和の日」もあったが慰霊の日と趣旨が同じなどとして削除された。

なぜ軍人が自決した日を選んだのか?陳情書で23日だったのがどうして22日に変わったのか?当時の会議録を調べてもはっきりとした理由は探せなかった。だが、議論の痕跡を見ることはできた。

「(米軍資料を訳した)琉球新報の記事によると6月22日午前4時前後に牛島中将が切腹して終了したことになっております」

「いつやるかということは相当の異論があるわけです。占領をアメリカが宣言した日をやるのか、あるいは事実上日本軍が崩壊した日をやるのか。あるいは軍司令官が死んでしまったその日をやるのか」

アメリカが占領したというよりも日本側が完全にザ・エンドしたという日を求めるのが妥当かと思います。住民はそのときには勝利者の側ではないのです。日本の軍隊が消滅した日を探してその日とすべきじゃないですか」

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1961年、「慰霊の日」についての議論が記された速記録(県公文書館所蔵)

とはいえ、「琉球政府創立記念日」や「国際親善の日」、「平和の日」などが活発に論議されたのに対し、「慰霊の日」は案外すんなりと話が進んだようだ。

1961年、立法院議員として「慰霊の日」誕生の瞬間に立ち会った古堅実吉さん

当時立法院議員だった古堅実吉さん(88)はこう振り返る。

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「最高指揮者の司令官の自決とともに全てが収まったという意味合いは最初から持っていなかった。しかし組織的な戦闘が終了したということについて異存はなかったように思う。司令官が死んだのが22日、だから慰霊の日を22日にしたほうがいいというつなぎはすんなりいった」

こうして、慰霊の日は「6・22」として産声を上げた。

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1962年、初の慰霊の日で行われた「平和大行進」。遺族らが那覇から本島南部までを歩いた。

6月23日に変更された背景は?

慰霊の日が「6・23」になったのは、最初の制定から4年後のこと。

「住民の祝祭日に関する立法」の改正により、慰霊の日の変更について再調査が行われた。その際、参考人として呼ばれた沖縄観光協会事務局長の山城善三氏がこう発言している。

「戦争史を研究しておりますが、それによるとちょっと一日のずれがあるのではないかというふうな感じをいたすのであります」

自決した日について、沖縄で編集されたほとんどの書籍が22日午前4時半とあるのに対し、大本営や東京で出版されたものは23日午前4時半とあると説明。さらに、沖縄戦時の高級参謀だった八原博通(やはら・ひろみち)氏に直接聞き取りし、はっきり23日だと答えたという。

山城氏の証言を元に、「慰霊の日は23日とする」と定めた条例が公布された。

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1965年、慰霊の日の根拠となる牛島満司令官らの自決日が6月23日であるという山城善三氏の証言が記されている速記録(沖縄県公文書館所蔵)

古堅さんは「22日だ23日だということにかんかんがくがく論議するということはなく、『ああそうか、ならそのように変えたらいいじゃないか』というふうにして23日に変わった。自信を持ってというよりは、関係した軍部の上層部が内情を知っていてそう言うなら、という程度だった」と話す。

日本復帰でも影響を受けた

沖縄が日本復帰した1972年。日本の法律が適用されるため、慰霊の日を含む沖縄独自の休日が法的には休日から除外されることになった。

しかし条例により県職員は継続して慰霊の日を休みとして認められ、市町村などもそれにならった。さらに74年には県が「『慰霊の日』を定める条例」を公布し、「6・23」は県民の休日として広く浸透していくことになった。

72年の慰霊の日を巡る動きは、当時の新聞などを見てもとりたてて大きな話題にはなっていない。当時、県の職員だった大城貴代子さん(78)は「アメリカと日本では制度が違う。日本に復帰することで身分や賃金の保証はどうなるのかや、物価の変動の方が関心が高かったのかもしれない」と回想する。

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「慰霊の日」の変遷を振り返る元県職員の大城貴代子さん

山口県出身の大城さんは青年団の交流で沖縄出身の夫と知り合い、結婚を機に沖縄へ移住した。最初に慰霊の日を知ったのは、沖縄に渡ってすぐのころ。夫や青年団のメンバーと戦後初の慰霊塔でもある「魂魄の塔」の慰霊祭に参加したときだ。

沖縄戦で多くの犠牲者が出たことは知っていたが、土地の人たちの悲しみを肌で感じた。「家族や友人といった身近な人がどこで亡くなったか分からないから毎年来ているという人もいた。沖縄戦を忘れないために休日にして、皆が喪に服すというのはすごいことだと思いましたよ」

平成は「休日廃止」で大論争

時代は進み、1988年。慰霊の日を休みにするのはやめようという動きが出た。

「日本人は働き過ぎ」と国際的批判を浴びていた日本は、この年、週休2日制の推進のため国の機関に土曜閉庁を導入した。同時に、地方自治法を改正。自治体の休日も国の機関に合わせることを義務付けたため、地方独自の休日が認められないことになった。それは「慰霊の日」が休日でなくなることを意味し、大きな関心をよんだ。

平成元年の89年6月、県議会へ「慰霊の日」の休日廃止を盛り込んだ条例案が提出されると、反発のうねりはみるみる大きくなっていく。

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慰霊の日の「公休廃止」を巡る動きを伝える当時の新聞紙面

「法定休日がなくなれば一家そろって慰霊祭や平和行進に参加できなくなる」

「地方の独自性を否定し、地方の文化や生活を踏みにじるものだ」

当時の紙面にも強い批判の言葉が並ぶ。

県職員労働組合、遺族連合会、県教職員組合といった各団体、学者や法曹関係者などが次々と抗議の声を上げ、知念高校では休日の賛否を問うアンケートが行われるなどまさに全県的な運動に波及していった。

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休日存続を要請し、2万人の署名を県議会に提出した県遺族連合会=1989年6月20日

時の西銘順治知事はこうした反発に対して、かたくなに廃止を主張した。議員たちは県民感情に配慮し、与野党を超えて「休日存続」で足並みをそろえた。結局、議決されないまま持ち越され続け、90年には県議会史上初めて、県知事提案に対して「廃案」とする事態に。西銘知事は「撤回する気はない」と対抗、議論は平行線をたどった。

局面ががらっと変わったのは、90年6月23日。内閣総理大臣海部俊樹氏が歴代首相として初めて県主催の「沖縄全戦没者追悼式」に参列した。

その場の会見で首相は「従来通り県職員の休日として存続できるよう検討する」と明言。予期せぬタイミングで国側が〝特別措置〟の道を示したことで、西銘知事も一気に「休日存続」へ方向転換、間もなく自治大臣への要請に赴いた。

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内閣総理大臣として初めて「沖縄全戦没者追悼式」に参列した海部俊樹総理=1990年6月23日、糸満市摩文仁平和祈念公園

大田昌秀知事に代わった91年、国会で「特別な歴史的、社会的意義を有し、住民がこぞって記念することが定着している日」であれば休日にできるとした地方自治法の改正が可決された。県も条例を改正し、それまで通り慰霊の日は県職員の休日となり、市町村や学校現場も続いた。

当時の琉球新報はこの流れを「県民世論の逆転サヨナラ勝ち」と表現した。

県庁の各職場でも、組合が労働者へ共闘を呼び掛けるオルグ活動が盛んに行われていたといい、大城さんは「存続が決まったときは特別にお祝いしたような記憶はないけれど、『よかったね』『頑張ったかいがあったね』と喜んだのは覚えている」と懐かしむ。

戦後73年の「慰霊の日」

「慰霊の日」の根拠となった牛島司令官と長参謀長が自決した日については、今でも議論されている。86年に見つかった米軍の資料では、複数の捕虜の証言により自決は6月22日午前3時40分だと明記されている。2人の遺体を確認し、糸満市摩文仁に建てられた墓標を書いたという人も22日だと断言している。

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 牛島満司令官と長勇参謀長

そもそも軍人が自決した日を〝沖縄戦終結した〟とすることに疑問を投げ掛ける人も多い。牛島司令官は自決前に各部隊へ「最後まで敢闘せよ」との言葉を残して徹底抗戦を指示。このため、彼らの自決後も軍人や住民に多くの犠牲者が出ることになったからだ。

日本軍と連合国側双方の代表が沖縄で降伏文書にサインした9月7日を慰霊の日とすべきだと主張する人もいる。

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「慰霊の日」に関する新事実を報じる記事=1986年

89年に公休日廃止の議論が沸いたとき、教育現場では「慰霊の日で休校になっても遊んでいては意味がない。単なる普通の休みととらえている子が多いのではないか」「平和教育は慰霊の日だけの問題ではなく日常生活の中で常に語り合わなければならない」といった懸念の声があった。

これは30年たった今も変わらない課題だ。


慰霊の日の制定に立ち会った古堅さんは、14~19歳の少年が集められた「鉄血勤皇隊」として沖縄戦に動員された後、捕虜になってハワイへ送られた経験を持つ。毎年、慰霊の日には摩文仁にある沖縄師範学校の慰霊塔「沖縄師範健児之塔」での慰霊祭へ足を運び、犠牲になった旧友たちを思う。

「一緒に立っておって吹っ飛ぶも者もいればけがをしないで済む者もいる。そういう中で偶然生き残った者として、どんな生き方をするのか死ぬまで問われ続ける問題です。二度と戦世を引き起こしてはならんという立場に立たされている者がね、慰霊やそれに関わるような問題についていささかもないがしろすることは許されないですよ」

戦後73年。また一つ、平成という時代が終わる。薄れゆく戦争の記憶をつなぐ「慰霊の日」はこの先も特別な日であってほしいと願う。

(デジタル編集担当 大城周子)