海軍の死闘と陸軍の日光浴 - 大田実中将が「大本営を含む各方面」に打電した理由

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「2世3世が語るしかない」 沖縄戦で自決、大田中将の子孫 集団的自衛権閣議決定:朝日新聞デジタル

 

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【シリーズ沖縄戦】74年前の今日
1945年6月5日 『日本海軍の抵抗』
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74年前の今日、

 

小禄半島にいた日本海軍大田実少将は、第32軍主力部隊の首里撤退が完了したのを確認した上で、大本営を含む各方面に電報を打った。

 

「海軍部隊は最精鋭の陸戦隊4個大隊を陸軍の指揮に入れ、首里戦線において遺憾なく敢闘したことはご承知の通りである。また今次軍主力の喜屋武半島への退却作戦も、長堂以西国場川南岸高地帯に拠るわが海軍の奮闘により、すでに成功したものと認める。予は、課せられた主任務を完遂した今日、思い残すことなく、残存部隊を率いて、小禄地区を頑守し、武人の最後を全うせんとする考えである。ここに懇篤なる指導恩顧を受けた軍司令閣下に、厚くお礼を申し上げるとともに、ご武運の長久を祈る。

身はたとえ沖縄野辺に果つるとも

護り続けむ 大和島根を」

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 396-397頁より》

 

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《AIによるカラー処理》占領される直前の那覇飛行場(1945年6月5日撮影)General View of Naha Airfield shortly before it was taken.写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

  

ここで留意したいのは、大田実中将が「大本営を含む各方面」に打電するという形式をとっていたということであり、それを第32軍司令部の八原高級参謀が著書で明かしている。

 

大田中将は、第32軍司令部がどういうやりかたをとってきたかを知っていた。地上戦のプロであるはずの陸軍が本島南部へと後退するあいだ、大型装備もなく、地上戦に対応できない海軍をむりやり最前線に引き戻し、小禄半島に上陸した米軍と対峙させたのだ。

 

Previously ...

okinawa1945.hatenablog.com

 

今でいう、メールの「Cc:」(カーボンコピー) または、「一斉送信」をすることで証拠を残す。陸軍にとって都合の悪いことを後から揉み消されないようにするため、各所に打電し、コピーを残すことで、「あったことをなかった」とされるのを阻止したかったのかもしれない。

 

今日、大田海軍は、上陸してきた米軍に抵抗するいっぽうで、南へと退却が完了していた第32軍にも抵抗したのだ。

 

大田実少将の電文では、最期の沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」の訣別文が広く知られているが、

 

それは、74年前の今日、各方面に送った電文があったからこそ、より重要な意味を持つ。

 

第32軍としては、海軍と沖縄県民を盾にして後退したと思われたくないためか、どうにか取り繕うとしたのだろう。

 

海軍部隊が孤立、まさに被包囲の態勢に落ちんとする6月5日、大田海軍少将より、…電報が到達した。…海軍部隊を、喜屋武半島陣地に収容する準備を進めていた軍首脳部は、深く覚悟を決めた大田将軍の決意を知って驚愕した。小禄地区の死守は作戦上十分に価値あることであり、かつ従来の行きがかりからしても、海軍側の心事は諒としなければならぬ。だが武運尽きて殪れるときは、陸海軍もろともの我々の心が承知しない。陸軍としては、孤立無援の海軍部隊を、指呼の間に眺めながら、その全滅を黙視するに忍びない。軍司令官は、直ちに次の電報を発せられた。大田少将の電報が、大本営その他関係各方面文取り扱いになっていたので、陸軍側も同一形式をとった。

 

「海軍部隊が、人格高潔な大田将軍統率の下、陸軍部隊と渾然一体となり勇戦敢闘せられ、沖縄作戦に偉大なる貢献を為されたことは、予の感激に堪えざるところである。海軍部隊が、その任務を完遂した今日、なお孤立無援、小禄陣地を死守せんとする壮烈な決意には、満腔の敬意を表するが、陸軍に先だち、海軍の全滅するは到底予の忍び得ないところである。海軍部隊の後退は、状況上なお可能である。貴部隊が速やかに、陸軍部隊に合一され、最期を同じくされんこと切望に堪えず」

 

…電報に引き続き、統師の形式を整えるために、海軍部隊に、退却の軍命令が発せられた。しかし大田将軍の決意は堅く、なかなか後退し来る模様は見えない。そこで軍司令官から大田将軍宛てに後退を勧める親書を送達するなど、百方努力したが、その牢固たる決心はついに翻すことができなかった。』(396-398頁)

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 396-397頁より》

 

と弁明している。

 

本気で「海軍の全滅するは到底予の忍び得ない」と思っていたなら、海軍部隊が撤退できるような「作戦」を考えたはずだ。そもそもだが、無残な犠牲をともないながら、海軍を丸腰で最前線に引き戻す「厳命」などしなかったはずである。

 

陸軍側は、電報に引き続き、退却の軍命令、さらに、軍司令官から大田将軍宛てに後退を勧める親書の送達などしたというが、大田中将は頑として動かなかった。(動けなかったのではない、頑として動かなかったのだ。)

 

中将の想いとはいかばかりのものだっただろうか。

 

同じ軍人に対してでさえ、このようなひどい扱いだ。県民のことなど、第32軍「沖縄守備軍」司令部の参謀らの目にはどのように映っていたのだろうか。

 

ところで、昨日の投稿で紹介できなかった軍司令部のエピソードがあるので、今日、紹介したい。

 

八原高級参謀の著書にあるもので、第32軍司令部の「ありさま」をよく表している一例だと思う。

 

摩文仁洞窟の平和な雰囲気は、ほんの暫しの間であった。6月4日の正午ごろ、参謀長以下の副官部が、いつもの通り断崖の海岸出口で日向ぼっこをしている最中に、敵の哨海艇に急襲されたのである。坂口副官は手に軽傷し、脱ぎ棄ててあった参謀長の軍衣は、数発の機関銃弾が貫通していた。この事件以来、数隻の敵哨海艇が、絶えず海岸5、60メートルの近くを遊弋し、機を見てはドン、バリバリ---ドンは小口径砲、バリバリは機銃の音---と掃射を始め、まったく物騒千万になった。』(382頁)
《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 382頁より》

 

沖縄のあちこちで、空襲があり、艦砲射撃があり、機銃掃射があり、火炎放射器が火を噴いていたというのに、

 

軍司令部のものたちは首里の時と同様、壕からほとんど外に出ることもなく、いつものように日向ぼっこをして、数発の掃射があったことで「物騒千万になった」と言う。

 

結局、『最後の一兵まで戦え』と命じた連中は、最期まで自ら前線におもむくことはなかった。

 

ご覧ください。⇩

 

1945年 6月5日 『日本海軍の抵抗』

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