最期まで生きのびた宇土大佐

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【シリーズ沖縄戦】74年前の今日
1945年4月30日 『海兵隊の南下』
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北部でゲリラ戦を展開した宇土部隊だが、

 

彼らが1944年の夏から
沖縄にやってくると、
北部にも慰安所が続々と開設された。

 

本部町渡久地には10月5日から、
謝花には11月26日から、
今帰仁村では11月4日から。

 

また1945年1月には
宇土部隊の真部山陣地内にも慰安所を設置した。

 

地元の評判は芳しくない宇土大佐は、

 

 

[記憶紡いで 戦後73年]

幼い心 傷つけた戦争/本部 高山さん夫妻 述懐

沖縄タイムス+プラス 

2018年5月31日

 【本部】町伊豆味の高山朝文さん(78)、節さん(79)夫妻は戦争体験者。「あの戦は幼い心を傷つけた」と幼少時を振り返った。

 

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「あのような哀れな戦は二度とごめんだよ」と話す高山朝文さん(右)節さん夫妻=本部町伊豆味の高山さん宅


 

 朝文さんは4歳の頃、当時40代だった父親が、日本軍の宇土部隊の陣地があった真部山で「慰安所の管理人をやっていた」記憶がある。

 

 「伊豆味小中学校で日本兵慰安婦の食事を作っていた。慰安所に届けるために祖父と真部山に行ったことを覚えている」。実家のあった通称・恩納原から真部山までは歩いて行けた。陣地には約50人の日本兵が闊歩(かっぽ)していたという。

 

 恩納原には50軒の家があり、それぞれが防空壕を掘っていた。1945年、戦火は恩納原に及び、高山さん家族8人も壕に隠れた。「米軍が2〜3匹の軍用犬を連れて壕に入っていた人に『住民は心配するな。これは軍と軍との戦いだから』と投降を呼び掛けた。流ちょうな日本語だった。伊豆味出身で米国移住した人の2世が米軍に同行し通訳していたと後で知った」。山から下りたり、壕から出たりした人など約600人が伊豆味小中学校に集められ、米軍のトラックで田井等の収容所へ向かった。

 

 「実家はダキカヤブキ(竹かやぶき)の家として地域で一目置かれていたが、祖父はトラックに乗せられる前に焼かれているのを目撃し、その後、ショックのあまり亡くなった」と述懐した。

 

 伊江島出身の節さんは戦時、伊江島真謝の海岸のガマに家族や親戚約20人と身を隠していた。「真謝ではアンダミスで避難食を作ってガマに持ち込んだがカビが生えていた。辛(から)くて大変だった。艦砲射撃の音が怖かった」と話す。節さんらは集団疎開で (ブログ註・集団疎開ではなく、米軍の渡嘉敷の民間人収容所に収容されたこと) 渡嘉敷島へ。「渡嘉敷も戦の真ん中。捕虜になって初めて敵軍を見た。戦が終わり伊江島へ帰ったらバーキ(かご)に芋を入れ亡くなったわが子を探している母親もいた」と目頭を熱くした。子ども2人、孫5人の子宝に恵まれた高山さん夫妻。「絶対に戦はやってはいけない」と力を込めた。(玉城学通信員) 

 

宇土部隊は、4月17日に八重岳の陣地を放棄、300人の負傷兵を置き去りにして敗走した後、食料強奪や住民虐殺を続けながら、沖縄本島北部の密林に潜伏していくのだが、

 

battle-of-okinawa.hatenablog.com

 

宇土大佐が、今日、この時点でも山小舎の中に女性と一緒にいたと記録されている。

 

次々と兵士と「護郷隊」と呼ばれた沖縄の少年兵の命が失われていくなか、

 

宇土大佐含む、彼の国頭支隊残存兵99名が米軍に投降したのは、10月2日になってからのことだった。

 

1945年 4月30日 『海兵隊の南下』

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