この日、陸軍第32軍司令部と大田海軍とのあいだにおこった、なにか尋常ではないこと

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旧海軍司令部壕Official on Twitter: "  は来年3月で開館50周年を迎えますが、残念ながら沖縄県民の方でも海軍壕を知らない方が多くいらっしゃいます。 海軍壕が平和の発信基地になるよう、50周年の節目に向けて職員一同頑張って周知活動してまいります。 

 

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【シリーズ沖縄戦】74年前の今日
1945年 5月28日 『最前線に戻った海軍部隊』
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その当時
5月27日は「海軍記念日」とされ、

 

日露戦争での日海戦勝利を祝い
海軍の栄光を祝うはずのものだった。

 

ところが

今から74年前の海軍記念日
大田実中将率いる海軍部隊が味わったものは、

 

それとはまったく異なる種類のものだった。

 

第32軍司令部が決定した南部への移動に伴い、

 

小禄半島を拠点としていた海軍部隊は、
27日までに糸満市伊敷へ移動を終えていた。

 

ところが、海軍司令部は作戦会議にも呼ばれず、伝令の食い違い、海軍は小禄に残って第32軍司令部の撤退を支援せよ、という指令だった、とかなんとかで、

 

詳しくは今日のこちらをご覧ください。

neverforget1945.hatenablog.com

 

八原高級参謀の記録によると、伝達ミスによる先走りとあるが、もし八原の記録が本当であれば、伝達ミスによる海軍の「転進」を「処分」するために、海軍司令部に対して『無慈悲に旧陣地に復帰を厳命』したのだとすれば、この32軍の思い上がった官僚主義がどれだけ多くの人命と戦線を失わせたか、身の毛もよだつばかりである。

 

あの温厚で知られた大田少将が声を荒げたという記録もあるから、このとき、何か尋常ではないことが両部隊の間にあったと考えられる。

 

『海軍のかかる行動は軍命令の誤解に基づくものと推断される。軍としてこれを黙過するか、あるいは無慈悲に旧陣地に復帰を厳命するか、至急態度を決定しなければならぬ。憤然たる長野は、復帰命令を起案して私に提示した。この命令の巻き起こす混乱を予想して当惑したが、大局より判断し、これを認めることに同意した。』

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 358-339頁より》

 

ともかく、それで海軍部隊は、28日に再び元の陣地がある小禄半島の海軍司令部壕に引き戻された。

 

これには下記に記すとおり、諸説あり、
証言も陸軍と海軍で異なるが、

 

雨と泥と砲弾のなかでの行軍で
失われたのは多くの兵士の命だけではない。

 

小禄半島へ戻った海軍部隊は
実質上の丸腰「槍部隊」となっていた。

 

南部への後退の際に
重火器類をほとんど破壊していたからである。

 

そうして月をまたぎ

 

6月2日、今度こそ
海軍は「摩文仁へ撤退せよ」という指令を受ける。

 

しかし大田少将らは、もう二度と
南へ向かうことはなかった。

 

彼らが南部の往復で見てきたものは、
どのような沖縄の光景だったのだろうか。

 

6月6日午後8時16分

 

太田中将は、
あの有名な「沖縄県民斯ク戦ヘリ」の電報を発信し

  

6月13日、

この壕内で自決した。

 

 

 

ご覧ください。⇩

1945年 5月28日 『最前線に戻った海軍部隊』

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