いったいこの戦いは、いつになったら終わるのか

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《AIによるカラー処理》

丘の斜面にある雨の溜まった水玉模様の地面の穴や、葉の落ちた木の幹の裂かれた様は、首里城周辺の日本軍陣地に対する第10陸軍の猛攻をあらわにする。左手前の倒れた鉄塔は、8万の皇軍で防御体系をなしていた中央制御部の周りにあった11の同様な施設の一つであった。丘には日本軍が爆撃を避けるための洞穴が、中央には米歩兵部隊の携帯テントが見える。

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

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【シリーズ沖縄戦】74年前の今日
1945年5月17日 『死者は血の海に横たわる』
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シュガーローフの戦い。

 

米軍はこの時点で3964名の戦死者と、1万8258名の負傷者、302名の行方不明者、海軍もまた4千名をこえる戦死者をだしていた。

 

この激戦のさなかも米軍は後方で着々と基地を建設し、たくさんの墓に白い十字架をたてた。

 

しかし沖縄で戦死した日本兵と、その日本兵の戦死者をはるかに上回る沖縄の老若男女のなきがらはどこに眠っているのだろうか。

 

3月23日から『74年前のきょう』を配信して、
今日で56日目。

 

毎日、毎日、
74年前にあった地上戦のことを伝えながら、

一体、この戦争はいつになったら終わるのかと思う。

 

当時、前線にいた日米の兵士や沖縄の住民にとっては、その問いは切実なものだったに違いない。

 

だが、それに答えてくれる者はなく、

 

次の日も、次の日も、
沖縄の地に新たな死体が転がっていく。

 

74年前の4月1日から今日までの
戦闘地域を巡るため、車を走らせた日があった。

 

今はコンクリートの家々が立ち並び、
ホテルや商業施設、幹線道路があっても、

 

首里浦添、宜野湾周辺の丘陵は、
74年前のまま、そこにある。

 

この地で、多くの人々が血の海に横たわった。

 

身元が確認され、
埋葬された者はごくわずか。

 

多くの人々はそのまま

 

壕の中で、森の中で、

そして我々が暮らす地の下で、

 

頭上に飛び交う戦闘機の響きに揺れ、
山々に撃ちこまれる実弾の痛みを感じ、
基地建設に押しつぶされる声なき生き物たちの声を聞き、

 

『一体、この戦争はいつになったら終わるのか』
と問いかけている。

 

それは、遠い沖縄の地で戦死した
米兵の魂も同じだと思う。

 

『俺たちが戦ったあの地上戦は、まだ終わってないのか?なぜ、まだ俺たちの戦闘機や艦船がいるのか? いつになったら、俺たちの魂は静かに故郷に帰れるのか?』

 

 ご覧ください。⇩

1945年 5月17日 『死者は血の海に横たわる』

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