1945年4月8日、16日間の激戦「嘉数高台の戦い」

 

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嘉数高台からのぞむ普天間基地
 
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【シリーズ沖縄戦】74年前の今日
1945年4月8日『首里の攻防・第1線』
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4月1日の米軍上陸で大きな損害もなく上陸したアメリカ軍は、続々と日本軍司令部がある首里に向けて南下をつづけた。
 
そして
ついに16日間の攻防「嘉数高台の戦い」が始まる。
 
嘉数の戦いの拠点となった今の宜野湾市の嘉数高台は、長さ約910メートルの台地。
 

嘉数高台公園・KakazuKoudai-Park

公園には戦時のトーチカが残されています。周囲には砲弾の跡が生々しく、当時の激戦の様子を今に残しています。このほかにも陣地壕や防空壕、慰霊の塔などが周辺に点在しています。

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日本軍は住民総動員で高台のいたるところに地下壕 (トーチカ) を掘ってアメリカ軍を待ち構えた。
 

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宜野湾市の嘉数高台公園、標高わずか92メートルの丘をめぐって、日本とアメリカの数千人の兵士が命を落としたといわれています。

アメリカ軍は、昭和20年4月1日に読谷村付近に上陸を始め、3日後には中部一帯に進み、主力部隊は、さらに南を目指しました。その先に、嘉数高台はありました。

 

嘉数高台に戦争遺跡、トーチカが今も残っています。圧倒的な物量のアメリカ軍を食い止めるため、分厚いコンクリー卜で固めた日本軍の小さな攻撃拠点です。こうした陣地づくりには、嘉数集落の多くの住民が駆り出されました。

 

戦時下、学校の生徒も軍の作業に動員されました。生徒たちは、鉄血勤皇隊と呼ばれました。その後、作業だけでなく戦闘そのものに、駆り出されるようになりました。


嘉数高台をめぐる戦闘は、15日間続き、集落も戦いに巻き込まれました。住民の半数以上が亡くなったとも伝えられています。

 

日本は、水際で米軍上陸を阻止する作戦を一切とらず、
沖縄本島に米軍を十分に招き入れ、そこで米軍を釘付けにすることで、本土決戦までの時間稼ぎをねらった。
 
まさに沖縄の島全体に米軍を飲み込ませ、
なんとか米軍の足止めを狙った。
 
その意味でも
本土の考えることは、今も変わらない。
 
それで、そこまでして「時間稼ぎ」したかった本土決戦のための「戦略」とは何だったのか。
 
戦局はもう見えていた。
少なくとも見える人には見えていたはずである。
 
一億人も特攻玉砕すれば、その国家は消滅する。言語矛盾をおこした、何の意味もない空虚な言葉。
 
しかし、そんなおぞましくも意味のない言葉に酔いしれるメンタリティーは今も変わらない。
 
 
 
1億総特攻のかけ声のもと、火薬を詰め込んだ木箱を背負わせ、戦車の下に飛び込ませたりした。
 
 
日本軍を信じ協力させられた県民は
まさに島が生きた砦として設定されているなど、
 
その当時は知るよしもなかった。
 
軍官民共生共死の一体化とは何だったのか。
 
3月25日、慶良間列島米軍上陸前夜から
見てきてもわかるように、
 
離島や小さな共同体で、
島を守るためだと
日本軍ががっつり入り込んでいたところでの
住民の犠牲者の数は驚くほど高い。
 
ここ嘉数や前田でも、
半数以上の住民が戦闘に巻き込まれ死亡した。
 
 
軍の有無による死亡率の違い
集落名 人口 戦死数 死亡率 一家全滅率 日本軍戦闘陣地有無
嘉数 695人 374人 54% 33% 日本軍いる
前田 934人 549人 59% 29% 日本軍いる
宜野湾 1036人 207人 20% 6% 日本軍いない

 

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