普天間基地とは…
米軍は沖縄戦で生き残った住民を収容所に収容し、基地建設に邁進した。米軍の記録によると、普天間飛行場の建設は沖縄戦のさなか 1945年6月15日に開始された。
Futenma: ‘The Most Dangerous Base in the World’ – The Diplomat
共和党きってのタカ派の国務長官ラムズフェルドが、普天間を「世界で最も危険な基地」と明言したのは、2004年の『沖国大米軍ヘリ墜落事件』 のちょうど一年前のことだった。
2004年8月13日に沖縄国際大学で起こったこと
2004年8月13日
午後2時15分。
5700余名の学生が学ぶ沖縄国際大学の本館学舎に米海兵隊の大型ヘリ CH53D が墜落した。
大型ヘリの尾翼のローターブレード (転翼羽根) が折れて落下するという信じられない状況。制御不能になったヘリは400メートル離れた大学のキャンパスに墜落。尾翼ローターが落下した地点は志真志小学校のちかくであった。
宜野湾市によると、2,300メートルまで部品やコンクリート片が弾丸のように飛び散り、窓ガラスなどを突き抜け、住宅内を貫通するなど38世帯延べ61件の物的な被害を与えた。
大学が夏休みで学生がほとんどいなかったこと、宜野湾市の消防署が全力で消火活動にあたったこともあり、結果的には負傷者は奇跡的に3名という少なさに抑えることができたが、
沖縄戦で戦時占領されたまま返還されることなく密集した住宅街の只中に基地が居座り続けるということの恐ろしさを我々に示すものであった。
これが1945年の戦時占領のまま街中に米軍基地が居座る沖縄の現実である。
繰り返しおこされる普天間飛行場の落下事故。 2017年12月13日、普天間第二小学校に米軍ヘリの窓枠が落下したことは記憶に新しい。
そして、今回の(米軍)報告書で注目すべき部分は窓が落下した現場を「空き地」「サッカー場」などと表現され、小学校であったことを示す記述がなかったことです。
小学校を「空き地」と報告する米軍。しかしこの事件のわずか6日前には、ヘリの部品の一部が保育園の屋根の上に落下するという、これまた人々をぞっとさせる事件が起こったばかりであった。
米軍は翌日、所属機の部品であることは認めたものの、機体から落下した可能性は低いと説明。それ以降、園には「うそをつくな」「自分たちでやったんだろう」「そんなところに保育園があるのが悪い」などの電話やメールが相次いだ。
基地と中傷、沖縄二重苦 米軍機落下物 「自作自演」「うそつき」電話・メール殺到 保育園「あまりに無理解」|【西日本新聞me】
いまも
見まわせば情況は何一つ変わっていない。
いったいその時なにが起こったのか、なぜ繰り返されるのか、大人としてしっかり知り、伝えていくことが大切である。
その日に起こったこと、
もういちど写真で振り返っていこう。
普天間基地のヘリ CH-53D が沖縄国際大学1号館北側に接触、墜落炎上。搭乗していた乗員3名は負傷、館内にいた大学職員20数名、他民間人に負傷者は出なかった。
まだ、消防車両も到着していない墜落直後の現場!(写真提供 宮里秀雄 宜野湾市ヘリ事故関連写真1〜9 )
黒煙を上げ激しく炎上する!墜落直後の現場!(写真提供 宮里秀雄 宜野湾市ヘリ事故関連写真1〜9 )
墜落直後、1~2分後には既に米兵が・・・。ヘリは墜落前に墜落場所を無線で通信した事を意味する。しかし、消防への通報は民間人が先だった。 (写真提供 宮里秀雄 宜野湾市ヘリ事故関連写真1〜9 )
現場を指差しながら駆け寄って来る市民!(写真提供 宮里秀雄 宜野湾市ヘリ事故関連写真1〜9 )
消防車両が到着した時には、煙はすでに車道まで広がっていた。(写真提供 宮里秀雄 宜野湾市ヘリ事故関連写真1〜9 )
墜落直後、黒煙の上がる物々しい現場! (写真提供 宮里秀雄 宜野湾市ヘリ事故関連写真1〜9 )
現場を追いだされるカメラマン
『炎上する機体!』この写真を撮ったカメラマンは、その後米兵に現場を追い出され、その時カメラを奪われそうになった。(写真提供 宮里秀雄 宜野湾市ヘリ事故関連写真1〜9 )
機体の残骸は炎を上げ燃え上がる!№9 (写真提供 宮里秀雄 宜野湾市ヘリ事故関連写真1〜9 )
校舎に激突し、構内で炎を上げ炎上する機体!二次爆発の危険性が高い状況の中、自らの危険を省みず消火活動する宜野湾消防。(ヘリ事故関連写真10〜18)
消化活動を終え息をつく軍消防士。彼らも、また沖縄県民・・・! 写真提供 新垣善正 №32 (ヘリ事故関連写真10〜18)
消火させるだけ消火させ、後は地位協定で排除
宜野湾消防署の全車が対応にあたり、化学消火剤で消火。消火活動が終わると疲れでそのまま現場に座り込む消防士もいた。
しかし、消火は宜野湾署にやらせながら、米軍はそこから一切の立ち入りを排除した。警察も追いだされ、ただただテープの向こうから傍観するだけだ。
米兵により押し返される沖縄カメラクルー 写真提供 新垣善正) №12 (ヘリ事故関連写真10〜18)
この黄色いテープから、日米地位協定の枠が始まった! 矛盾だらけの日米地位協定・・・! (ヘリ事故関連写真10〜18)
フェンスを隔てれば歩道!ある主婦は言った!『墜落のあったその時間帯は、子供が塾へ通うためいつものように自転車でその歩道を通る予定だった。しかし、その日は偶然にも父親が家にいて自家用車で送った為に災難を逃れたと言う。』もし、自転車で通っていたら・・・!写真提供 新垣善正 №15 (ヘリ事故関連写真10〜18)
機体はバラバラとなり、原型を留めていない。もし、夏休みでなかったら第二の宮森小学校に・・・! (ヘリ事故関連写真10〜18)
黒焦げになった校舎と周りの樹木! 写真提供 新垣善正 №23 (ヘリ事故関連写真10〜18)
もしこの落下したヘリの燃料タンクに引火し爆発していれば、宮の森小学校の墜落事故のように住宅街を火の海にしただろう。宜野湾市の消防署員の懸命な消火活動のおかげである。
今にも爆発しそうな燃料タンクが横たわる!№25 (ヘリ事故関連写真10〜18)
日米地位協定を盾に、米軍のみだけで現場検証が行われた・・・。事故は民間地域で起きているのにも関わらず、県警も消防も現場検証できない矛盾さ・・・!日米地位協定を盾に、米軍のみだけで現場検証が行われた・・・。事故は民間地域で起きているのにも関わらず、県警も消防も現場検証できない矛盾さ・・・! 写真提供 新垣善正 №26 (ヘリ事故関連写真10〜18)
前方数m先には給油所が!そして、その隣にはスーパーが・・・!一歩間違えれば大惨事に!多くの市民が被害に遭ったかも・・・!№30 (ヘリ事故関連写真10〜18)
現場に入れない沖縄県警・・・!そこには日米地位協定の壁が・・・!写真提供 新垣善正 №34 (ヘリ事故関連写真10〜18)
住宅街に弾丸のように突き刺さる破片
今回の墜落事故では、沖縄国際大学の本館を含め、周囲2,300メートルまで部品やコンクリート片が弾丸のように飛散し、アルミ戸や窓ガラスなどを突き抜け、住宅内を貫通するなど38世帯延べ61件の物的な被害を与えました。 これだけ多くの物的被害にもかかわらず、学生や市民に人身被害がなかったことは、奇蹟的であり、普天間飛行場の危険性への最後の警告と受け止めなければなりません。
http://www.city.ginowan.okinawa.jp/DAT/LIB/WEB/1/00277_00004.pdf
墜落現場向かいのアパートの窓ガラスを直撃!注意(鉄条網入りのガラスは外部からの衝撃に絶えられる強度をもっている。)しかし、ガラスの破片は隣部屋の襖を貫通!(写真下)№39
止めてあったバイクにプロペラが直撃!写真提供 新垣善正 №44
落下したプロペラによって破損したバイク!
マンション看板のビスを根こそぎ抜く程の破壊力!写真提供 新垣善正 №46
なぎ倒されたブーゲンビレア アーチ。写真提供 新垣善正 №48
破片が水タンクを貫通!そこからは水がも漏れ出している!№50
勝手口を破片石が貫通。その隣にはボイラーの石油タンクが・・・!№52
我如古公民館裏の豚舎近くに落ちた尾翼(テールローター)写真提供 新垣善正 №54
寝室にも建物の破片が・・・。墜落直前まで、幼児が寝ていた。
実は、ある部屋には直前まで6ヶ月の赤ちゃんと若い母親が寝ていたのですが、ヘリが墜落するのを知らせる電話で跳び起きて赤ちゃんを抱えて部屋から逃げて一命を取り留めたのです。 階下の中古車店で働いていた家族も墜落するヘリを避けようと物陰に隠れて被害に遭わずにすみました。
http://www.city.ginowan.okinawa.jp/DAT/LIB/WEB/1/00277_00004.pdf
大型クレーン車で吊り上げられる破壊した機体!№57
普天間飛行場は、このような人口密集地にある「世界で一番危険な基地」として、その危険を取り除くために、8年前に5ないし7年以内の全面返還が日米両政府で合意されたはずです。 しかし、この数年間で飛行回数は年間で1万回以上も増え、米軍ヘリの旋回地域も大幅に住宅地域にはみだすようなりました。(宜野湾市)
http://www.city.ginowan.okinawa.jp/DAT/LIB/WEB/1/00277_00004.pdf
在沖米軍、名物「素晴らしい功績」「緊急着陸」発言
在沖米軍における事故対応、定番の
「素晴らしい功績」。
「緊急着陸」。
こんな軍の非常識をまかり通らせているのは、いったい誰でしょうか。
沖縄県宜野湾市で起きた米軍ヘリ墜落事故で、在日米海兵隊基地副司令官のジェームズ・フロック准将が27日、米海兵隊キャンプ瑞慶覧(ずけらん)(同県北中城村)で記者会見した。事故を「緊急着陸(エマージェンシー・ランディング)」と表現したり、ヘリ乗組員の名を明かさなかったりするなど、事故の重大性をめぐる日米の認識の差を改めて際立たせた。
このような中、8月26日に横田にある在日米軍司令部ワスコー司令官は沖縄国際大学への墜落事故について「乗務員は飛行コントロールが不能になった機体を精一杯、人のいないところに行かせて被害を最小限に止めた。素晴らしい功績があった」などと発言しています。また、沖縄にいるフロック在日海兵隊基地副司令官もヘリ墜落を「緊急着陸」と言い換えて市民の思いを逆なでするような発言をしています。
この二人の司令官が言うように乗務員がヘリをコントロールしたのなら、尾翼ローターが折れてコントロール不能に陥った際、人家のない草木の茂る場所からあえて建物や人が多い地域に向かわせて大学本館に激突させたことになります。
ワスコー司令官の発言のように乗務員がコントロールしたのなら、その責任は重大です。日本の主権を侵害するような墜落事故後の米軍による現場封鎖の不当性と併せて両司令官の事実に反するような発言に怒りをもって抗議したいと思います。
基地内消防署員にだけ放射能被爆検査した米軍
宜野湾市の消防員はタンク車等車両11台と消防職員27名を出動。米軍より早く現場の火災鎮圧、救急応急処置にあた。
ところが米軍は、普天間基地内の米軍消防署員にはストロンチウム90の放射能検査を行うも、実質的な消火活動を担った宜野湾市の消防署員には何一つ報告すらしなかった。
県への情報公開請求で入手した事故の調査報告書によると、事故当時、市の消防車が現場に最初に到着し、その5分後に普天間飛行場の救難消防隊も駆け付けて消火活動に当たった。同市消防本部によると、当時消火活動に当たった市の隊員は放射能検査を受けておらず、米側から検査の必要性を打診された形跡もない。一方で米軍側は自軍の隊員のみ放射能検査を受けさせていた。
戦時占領によって構築した危険な基地を76年間も沖縄県民に押し付けてきた。この普天間基地の存在自体がハーグ陸戦条約違反である。
普天間の返還は、米国と日本政府の責任を問い、沖縄の犠牲なしで返還されるべき、その根拠はそこにある。
なぜ飛行場がここにあり続けるのか
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