1970年12月30日 北部訓練場「実弾射撃演習阻止運動」~ このようにして国頭の人々は米軍にたちむかった

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SACO 合意から25年目

今年 2021年は、あの SACO 最終報告から25年目だ。

 

1996年、SACO (Special Action Committee on Okinawa) は、沖縄の米軍基地負担を軽くする名目で幾つかを再編し、日本政府がその費用を負担するというものである。が、だまされてはいけない。負担軽減どころか、基地は沖縄でたらいまわし日米地位協定はいったい我々に何を強いているのか。

  

米軍は日本の土地も日本の金も、どんどん取っては使い捨てにする。使った後に片付けるとか、きれいにするとか、そういう発想など、そもそもない。

 

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たとえば北部訓練場を多く返還したとアベスガ政権はドヤ顔だったが、冗談じゃない。返還した多くのヘリパットは、すでに老朽化していたか、地理的に利用価値がなく、シダや樹木にさえ覆われた捨てられたヘリパットだった。(北部訓練場(28)過半返還に伴う支障除去措置に係る資料等調査資料等調査報告書平成29年12月 p. 27)

 

また、資料を読めばわかるが、北部訓練場でおこったヘリの事故は、ほとんどが水源地帯に墜落した。しかし米軍は、その墜落した機体すら回収することもなく、水源に廃棄し続け何十年も放置したままだ。

 

そのままポイと日本に投げ捨て、返還してやったから、かわりに新しい最新のオスプレイ対応ヘリパットと、新しい提供海域を用意しなさい、という。シンプルにいって、これが SACO 合意であった。

 

つまり、ほとんどサギ合意と呼んでもいい。これはまた次回、時間のある時に報告書を検証していきたい。

 

さて、米軍は占領下でうむをいわせず土地を収奪していったが、人々はだまって受難を受け入れていたわけではない。

 

今日は 1970年12月30日から31日にかけて、正月のさなか、国頭の人たちがどのように結束し米軍に立ち向かったのかを見ていきたいと思う。

 

1970月12月30日の実弾射撃演習阻止運動

米軍の、このやり方・・・。

 

1970年

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村民も気付かないうちに大規模な射撃場の施設建設が進められていた(上原一夫提供)

 

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発射台にはすでに砲座4カ所、壕2カ所、弾薬庫3カ所、ヘリポート2カ所が完成。周辺およそ1.5haの基地は、有刺鉄線が張りめぐらされていた。

 国頭村史『くんじゅん』p. 270.

 

ほんとうにやりたい放題だ。

実弾訓練はしないという最低限の条件すら守らない。

 

場所は国頭村安田のLZ-FBJ のヘリパットだ。

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そのトラブルは、1970(昭和45)年12月30日の実弾射撃演習阻止運動となって爆発した。そのことは、1970(同45)年2月ごろから国頭村民に気付かれないよう、安田の300m余の屹立したカシマタ山上に実弾射撃上をこしらえ、3台の砲座を築いてしまったことに始まる。米軍は、建設資材の全てをヘリコプターによって空輸していたのであった。このような米軍政府の秘密裏の動きは、沖縄の日本返還を前に、軍事基地についての既成事実をつくる意図があったことも否定できない。

 

実弾射撃によって山林が焦土化することは、恩納岳や金武岳の例で明らかであった。着弾地の一帯は、沖縄本島に残る唯一の自然林であり、しかも、山に依拠して生活している村民の歴史的な生活源であった。また、カシマタ山近くは、琉球政府中南部の工業用水を確保するために、両3年中に開発を予定していた水源地でもあった。さらに、学問的には、世界で一属一種の鳥類ノグチゲラや天然記念物のアカヒゲなどの棲息地でもあり、そのほかにも学問的価値の高い植物群生の地域でもあった。

 

すなわち、村民にとっては、実弾射撃の開始は、国頭村全体が軍用地として強制的に接収され、村民生活を根底から破壊されるものと受け取っていた。

 

12月30日早朝、当時の山川武夫村長を先頭に山に座り込み、一部は基地突入に成功した。交渉により演習は中止された。

 

枯葉剤や、ベトナム村や、廃棄物、騒音、オスプレイ…、問題は多々あれど、いまのところ北部訓練場では実弾射撃演習はおこなわれていない。発射台と砲座4カ所、壕2カ所、弾薬庫3カ所を設営しながら、米軍を阻止した。

 

2009年、村制百周年を記念し記した碑文とは

国頭村は、2009年、村制百周年を記念して村に記念碑を立てた。そこに記された碑文こそ、今日まさに紹介したい部分である。

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国頭村・安田、米軍実弾射撃演習阻止闘争(やんばるの反基地闘争①) - チョイさんの沖縄日記

 

国頭の人々は、あの伊部岳実弾射撃訓練を阻止し米軍に勝利した日のことを碑文に記した。

 

伊部岳実弾射撃演習阻止闘争碑
 

この地は、沖縄 を占領しているアメリカ合衆国 が北部訓練場として使用し、更に、実弾射撃演習場 併設を通告し、強行に演習を実施しようとしたことに対し、地域住民・村・支援団体が必死の決意で実弾射撃演習場設置を阻止した場所である。


 一九七〇年(昭和四五年)十二月二二日国頭村長あてに伊部岳 を中心とした北部訓練場内に実弾射撃訓練場を設置することを琉球政府 (現沖縄県)を通して電話通告してきた。

 

 二六日に国頭村議会は即、抗議決議を採択し演習阻止を明確に宣言した。同日に安田区ては演習場設置反対評議会 を結成し、住民くるみの動員体制を整えた。午後には米海兵隊が一日から射撃演習をはじめるとの情報を村に伝え、緊迫する中で三〇日を迎えた。


 国頭村字安田 ・安波 ・楚洲 の3集落では小中学生も阻止行動に参加した一方、着弾地点には、子供、高齢者を除き最大動員して座り込み、抗議・阻止の旗を掲け、火を焚き、煙の合図で強固な阻止体制が完了したことを告げた。


 三一日を迎えた。国頭村長を先頭に村民はじめ、支援団体約600人か発射地点近くて実弾射撃阻止大会を開き、着弾地点の北側に7〇人、南側に200人の行動隊が座り込み実力阻止、有刺鉄線を乗り越えて発射地点に突入、大混乱の中で、重軽傷者を出しながら体を張って米軍権力に対抗して阻止実現。「やったぞ!米兵は帰れ!」を歓声と怒りの声が深い豊かな山にこだました。

 

 持ち込んた砲弾はヘリで持ち帰り、米軍は正式に実弾射撃演習の中止を発表した。

 

 こうした決死の思いて村民、県民の生命、財産をはじめ、豊かな自然、水資源、ヤンハルクイナやノグチゲラなどの貴重な動植物を守ることができた。

 

 ”森と水とやすらぎの里”といわれる山原の自然を守り育てようとした先人達の偉業を伊部岳実弾射撃演習阻止闘争碑の存在を通して、平和、命の大切さを学習し、後世に語り継ぐために、この地に伊部岳実弾射撃演習阻止開争碑を設置した。

 

二〇〇九年(平成二一年)八月一五日
国頭村制一〇〇周年記念

 

2009年といえば、高江で地道な抵抗が続けられていたころだ。

そして日本の機動隊が選挙の数時間後に大挙してやってくるのは 2016年。

 

じつはここから沖縄の米軍基地問題についていえることは、実は、問題は、もはや米軍の銃剣とブルドーザーなどではない、そうではなくて、日本政府と、選挙後にやってくる機動隊、メディアと国民の無関心だということだ。

 

 

2016年のあの最悪の日々を私たちは決して忘れない。

 

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米軍基地建設に抗議する市民排除のために集結した、機動隊約500人によるむき出しの「暴力」。さらに激しさを増す保守系文化人・メディア、ネトウヨによる「沖縄バッシング」。本土復帰後最悪の「165日」の記録から、この国の民主主義の実像が浮かび上がった。「過激化する政府の暴走」「百田尚樹氏の現地講演」「産経新聞の虚報」の全貌を詳報。ウソやデタラメがもたらす「危機の正体」に、現場記者が切り込む。

ルポ沖縄 国家の暴力 米軍新基地建設と「高江165日」の真実 (朝日文庫)
by 阿部 岳 (著)

 

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