1969年7月8日、隠蔽された知花弾薬庫 (嘉手納弾薬庫) の毒ガス事故 ~ 1971年1月13日と7月15日の毒ガス移送 (レッドハット作戦) へ

 

米軍基地「知花弾薬庫」とは

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毒ガス即時撤去要求、アメリカのカンボジア侵略反対県民総決起大会
撮影日: 1970年 5月23日

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

県民に知らされることなく、知花弾薬庫 (現在の嘉手納弾薬庫に併合) にサリンなど大量の化学兵器が配備、そして1969年7月8日、ついに毒ガス事故がおこった。それから10日後、7月18日付の米国紙ウォール・ストリート・ジャーナルは、「神経ガス事故」というスクープ記事を掲載し、事件をすっぱ抜いた。なんと、沖縄の米軍基地内に13,000トンもの毒ガス兵器が貯蔵されていることが明らかになったのだった。

 

県民の強い抗議を受け、1970年12月5日、米軍は「レッドハット作戦」(Operation Red Hat)を発表し、沖縄に貯蔵される毒ガス兵器を米国領のジョンストン島に移送することを明らかにした。

 

1971年1月13日に第1次毒ガス移送が行われ、同年7月15日から9月9日までの56日間にわたって、第2次毒ガス移送が行われた。

 

1972年の沖縄返還協定で知花弾薬庫は比謝川サイト、波平弾薬庫、読谷合同廃弾処理場、陸軍混成サーヴィス群弾薬庫、嘉手納ヴォルタック施設、嘉手納タカン施設、東恩納弾薬庫と共に巨大な「嘉手納弾薬庫地区」に名称統合された。

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1960年代、沖縄は核兵器だけではなく、アジアで最大の化学兵器の備蓄基地だった。

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知花弾薬庫の奥にあるレッドハットエリアと呼ばれる一角。そこに70もの毒ガス専用の貯蔵庫が建設されていました。屋上には管機構が設けられていました。コンクリートの壁は大型爆弾の攻撃にも耐える厚さ50cm。中には即座に使用できる状態で毒ガスミサイルが並んでいます

NHK 『プロジェクト112 知られざる米軍化学兵器開発』

 

時間合わせ済み ⇩ Project 112 沖縄の知花弾薬庫とサリン事件

 

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1970年当時、知花弾薬庫に貯蔵されていた化学兵器を報告するかつての最高機密文書の一部

 

 【ジョン・ミッチェル特約通信員】米国情報自由法により公開されたかつての最高機密文書から、当時知花弾薬庫に貯蔵されていた化学兵器の正確な構成とその危険性が明らかになった。

 1970年の報告書によると、同弾薬庫には13種の神経性・びらん性ガス弾があり、数量は約29万発に及んだ。加えてサリンやVX、マスタードガスの大型タンクもあった。これら兵器には、100キロのサリンを内蔵するMC1型爆弾

が3千発以上と、起爆時に4・5キロのVXガスをまき散らすよう設計された地雷1万3千個が含まれていた。化学兵器は米4軍すべてが保有していた。

 当時同弾薬庫にあった約2万9千発のロケット弾は「欠陥品」に分類されていたが、これらロケット弾には計約8万5千キロサリンとVXガスが搭載されていた。ごく少量でも神経ガスにさらされれば、呼吸障害、けいれんや死亡の原因となる。

米軍知花弾薬庫の毒ガス漏出事故とは 毒ガス弾29万発貯蔵「欠陥品」のロケット弾も 米国の公開文書で判明 (沖縄タイムス 2019年10月7日)

 

1969年 - 知花弾薬庫の化学兵器

7月8日 隠蔽された知花弾薬庫毒ガス事故

 

【ジョン・ミッチェル特約通信員】1969年7月に米軍知花弾薬庫(現嘉手納弾薬庫地区)で起きた毒ガス漏出事故で、被害に遭った米兵の一人、ダニエル・プレモンスさん(69)=米ミズーリ州=が初めて本紙の取材に応じた。プレモンスさんは、今なお後遺症に苦しみ、「機密」の壁で治療や実態解明が進まない現実を語った。

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米軍の医療部隊用車両の前に立つダニエル・プレモンスさん=1969年、米国(提供)

 

 事故のあった69年7月8日、当時19歳のプレモンスさんは、陸軍第267化学中隊特技兵として、同弾薬庫で化学兵器の保守管理という最も危険で秘匿性の高い任務を行っていた。

 神経ガスの詰まった500ポンド(227キロ)爆弾を塗装し直す作業中だったという。「25個ほどやり終えた時、息苦しさと視界の異常を感じた。ほこりのせいだと思い少しの間外に出たが、戻った時にはみんな建物の外にいて、私に解毒剤を打てと叫んでいた。私は太ももの付け根に持っていたバネ仕掛けの注射針を打ち込んだ。痛かったが、おかげで命は助かった」

 

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第267化学中隊の兵士として沖縄に駐留中、同僚と写真に収まるダニエル・プレモンスさん(右)=1969年(提供)

 

 その後1週間、軍医がプレモンスさんら20人以上の兵士の血液を検査した。だが検査結果は現在まで機密とされ、知らされていないという。事故1年後には肺炎のため2週間入院するなど、現在までプレモンスさんの呼吸器の問題は続いており、末梢まっしょう神経障害のため長時間眠ったり、立ち歩いたりすることができない状態だ。娘たちも深刻な健康問題を抱えており、プレモンスさんはそれも事故と関連があるのではないかという。米退役軍人省の複数の医療施設を訪ねたが、医師たちは「神経ガスによる長期的な健康被害について科学的な調査はなされていない」と語るだけだった。プレモンスさんは「事故に遭った同僚の足跡をたどることもできず、彼らもこうした症状を抱えているのか、そもそも存命なのかすら分からない」と話した。


毒ガス洗浄器具 海に投棄か

 毒ガス事故後、米陸軍第267化学中隊の特技兵だったプレモンスさんは、沖縄から船で約1時間の海域にコンクリートで固められた容器を投棄する作業に参加した。「事故現場を洗浄するのに用いた道具が詰められていたのでは」と推測している。

 知花弾薬庫での任務の間、プレモンスさんはしばしば、神経ガス漏出の警報器代わりのウサギを世話した。「貯蔵庫の検査の際、私たちは漏出をチェックするためウサギのかごを出入り口近くに置いた。(ガスに)さらされると人間より早く死ぬから」。7月の事故の際、同僚は周辺にいたウサギが死んだと話していたという。

 プレモンスさんによると、弾薬庫には製造後数十年たったマスタードガス弾も貯蔵されていた。砲弾からは頻繁に泡状の液体が漏れ、同僚らと共に除去しなければならなかったという。

毒ガス漏出「解毒剤打て」 後遺症に悩む米兵 初めて語る沖縄での事故 機密に阻まれ進まない実態解明 (沖縄タイムス)

 

7月18日 米誌 WSJ神経ガス事故」報道

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7月22日 立法院「毒ガス兵器の撤去を要求する決議」を採択

 

事件後、化学兵器を沖縄の海岸に投棄

沖縄は「米軍のゴミ箱」なのか。

ジョンミッチェルさん「1969年、知花弾薬庫で化学兵器が漏れる事故が起きた。陸軍の兵器責任者から電話があり、これらの化学兵器を海に捨てるように指示されたと。VXガス、マスタードガス、サリン。私の調査によると、もう一つのタイプの化学兵器がある。ルイサイドという、最も危険といわれるマスタードガスより危険な物。」

これは当時、沖縄を統治していたランパート高等弁務官が帰任の際に自身の回顧録で語った話。ミッチェルさんは今回、沖縄でこのプロジェクトに関わったふたり人の元軍人からも証言を得ました。

ジョンミッチェルさん「当時沖縄にいた2人のアメリカ兵が、1969年の秋、沖縄の海に捨てた時のメンバーだったと証言している。1人は軍警察で、化学兵器を積んだ6台のトラックを知花弾薬庫から天願桟橋まで誘導したことを覚えています。」

またQABが去年枯れ葉剤に関してインタビューしたジェームズ・スペンサーさんも 次のような証言をしています。

ジョンミッチェルさん「もう一人は船に乗り、海に捨てる所に立ちあった。彼も海に化学兵器を落とす時に押すのを手伝ったと話している。」

1969年と言えば沖縄が日本本土に復帰する3年前。知花弾薬庫では毒ガス漏れが起こり25人が病院に運ばれたと新聞に報じられています。その前年、1968年には具志川で奇妙な事件が相次いでいました。

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これは具志川の田んぼで見つかった11本足のカエルの写真。この辺りではこうした奇形ガエルが何匹も捕獲され、子どもたちから『具志川蛙』と呼ばれていました。

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また具志川の海岸では児童およそ240人が海に入った途端、やけどのような皮膚炎を起こすという事件が発生。アメリカ軍基地がある辺野古や、金武でも同様の事件が発生し被害者は320人以上に上ったのです。

返還されたアメリカ軍基地の汚染の問題が浮き彫りになり、沖縄における化学兵器の存在や汚染の事実が問題になる中、ミッチェルさんは、海や土の汚染は過去の問題ではなく、いま私たちに迫っている危険で、すぐに調査すべきだと指摘します。 

ジョンミッチェルさん「科学者は化学兵器が捨てられ、50年と言うのはとても危険な時期だと語っている。アメリカの調査によると、海に捨てられた鉄製の容器は50年経つと壊れてしまう。ガスや化学兵器は50年経った今、毒が流れだそうとしているのです。」

沖縄の海に化学兵器が捨てられたということは当時の高等弁務官回顧録、そして元軍人の証言から明らかになったと言います。しかしその量や、今それらがどうなっているのかはわかっていません。

新たな証言 米軍が海に化学兵器を投棄か – QAB NEWS Headline

 

1970年

12月5日 - 米軍「レッドハット作戦」を発表

12月16日 毒ガス撤去対策本部設置

 

1971年 レッドハット作戦

1月13日 第1次毒ガス移送

1次移送では安全性を懸念する沿道住民から猛反発の声が上がった。2次移送の際、琉球政府は住宅地を極力避けるよう米側へ経路変更を求めた。米軍は1次移送の経路は安全と主張し、新たな道路建設の費用負担も拒絶していた。

【特報】1971年毒ガス2次移送の道路建設費 - 琉球新報デジタル

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Okinawa, ”Red Hat” Operation
【和訳】 沖縄、“レッドハット“作戦(毒ガス移送)
撮影地: (沖縄市知花〜具志川市天願)1971年 1月

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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Red Hat Operation, Okinawa, Chibana Ammunition Depot.
“レッドハット“作戦(毒ガス移送)、沖縄、知花弾薬庫
撮影地: 沖縄市知花 (1971年 1月)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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Red Hat Operation, Okinawa, Chibana Ammunition Depot.
“レッドハット“作戦(毒ガス移送)、沖縄、知花弾薬庫
撮影地: 沖縄市知花 (1971年 1月)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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Red Hat Operation, Okinawa, Chibana Ammunition Depot.
“レッドハット“作戦(毒ガス移送)、沖縄、知花弾薬庫
撮影地: 沖縄市知花 (1971年 1月)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

1971年4月30日の要請書

USCAR高等弁務官宛の要請書(1971年4月30日付)は、「沖縄県民がまったく関知せぬうちに米軍は国際法上、その使用が禁止され、人道上も許せぬ毒ガス兵器をもち込んだ」と、米軍を糾弾したうえで、第1次移送で撤去されたHDマスタードガスが、沖縄に貯蔵される毒ガス兵器の総量1万3千トンのわずか1%に過ぎないとし、より毒性の高いGBガス(サリン)、VX神経ガスを含む、残りの毒ガス兵器の完全撤去を「急務中の急務である」としています。 続けて、撤去の際には、「住民に被害が及ばぬよう万全の対策を講じ、完全な安全性を確保することが絶対要件でなければならない」として、多岐にわたる安全対策を要請しています。そのうち、「上空の飛行禁止」という項目には、米軍機の墜落による爆発事故を避けるためであるとして、「輸送中の輸送車群および天願桟橋の上空の飛行は絶対さけること」との文言も見られます。

琉球政府文書デジタルアーカイブ「琉政だより」No.7 (2018年6月)

 

7月15日-9月9日 第2次毒ガス移送

1971年7~9月に実施された米軍知花弾薬庫(現嘉手納弾薬庫地区)からの毒ガス兵器2次移送のため、日本政府が最終的に肩代わりした道路建設費20万ドル(約7200万円)

【特報】1971年毒ガス2次移送の道路建設費 - 琉球新報デジタル

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Red Hat Operation, Okinawa, Highway #24 (Enroute to Tengan Pier)
レッドハット作戦(毒ガス移送)、沖縄、24号線(天願桟橋への途中)
撮影地: (沖縄市知花〜具志川市天願)1971年 9月

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

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毒ガス移送 第2次 毒ガス撤去対策現地本部 作業ミスに抗議する住民
撮影日: 1971年 8月25日

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

米軍は第2次毒ガス移送時の出来事を“Red Hat Bulletin”という「速報」にまとめ、即日発表しました。そこには、日々のオペレーションだけではなく、思わぬ事故も記録されています。 1971年8月25日の「速報79号」では、同日の午前7時55分、「15箇のGB化学薬剤のロケット弾」の入ったパレットが、約40フィート(約12メートル)の高さから落下したと記録されています。この日の落下事故は、毒ガスの陸上移送最終日となる同年9月9日の「速報89号」のなかで、“One minor incident”(些少な事故)として発表されています。

琉球政府文書デジタルアーカイブ「琉政だより」No.7 (2018年6月)

 

悪名高い「知花弾薬庫」の名称は「嘉手納弾薬庫」に統合されて消える。しかし米軍の秘匿・隠ぺい・垂れ流し・無責任の米軍コロニアリズムは今も変わらない。

 

 

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時系列について時間がないので何年かかけて整理していきます。

米軍の化学兵器開発と沖縄米軍基地について Project 112 については、時間がある時、またまとめていきたい。