高級参謀の「高級」扱いと、学徒「通信隊」の戦場

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【Archive 2-6】沖縄県立水産学校 22人の水産通信隊 たった一人の生還

 

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【シリーズ沖縄戦】74年前の今日
1945年8月11日 『歓喜に沸く連合国』
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74年前の今日。

 

日本の国民が皇国の神話にしがみつき、いまだに神風を待ち望んでいた時、

 

世界には「日本、降伏受け入れ」の情報がかけめぐり、連合国は歓喜に沸いていた。

 

軍の機密を守れ、生きて虜囚の、を掲げ沖縄戦の作戦にあたっていた高級参謀は、捕虜になっても「高級」扱いで、民家一軒を与えられていた。

 

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一方、遊撃戦を命じられていた通信隊の学徒らは、八原が米軍将校と雑談しているときすら、戦場で生きる戦いを余儀なくされていた。

 

中学の低学年14歳~15歳は「勤皇隊」ではなく「通信隊」として組織され、最も悲惨な沖縄戦を戦うことを強いられた。

 

学徒たちは、いざとなると子どもだと軽んじられ、信じられないような酷い扱いを受けた。前線に置きざりにされたり、食事を与えられなかったり。

 

それでも子どもだから純粋に信じて戦った。戦場で皇国の兵士として立派に戦うのだと信じていた。

 

battle-of-okinawa.hatenablog.com

 

現在でも中学一・二年といえは平均身長も 150cm ぐらいである。こんな子どもたちが疑うことも知らず前線に投入されていったのだ。

 

今日の沖縄戦では、捕虜収容所で特別扱いの高級参謀と、いまだ戦場で命を奪われていた通信隊の少年たちの証言に注目してほしい。

 

ご覧ください。⇩

1945年 8月11日 『歓喜に沸く連合国』

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