沖縄戦の「戦闘疲労症」

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Why the Battle of Okinawa Caused Severe Combat Fatigue | Military.com

 

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【シリーズ沖縄戦】74年前の今日
1945年 7月23日 『片手に手榴弾、片手に白い布片』
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沖縄戦
74年前の今日も続いていた。

 

19歳で学生部隊「鉄血勤皇隊」に動員された大田昌秀元知事は、10月23日まで遊撃戦の機会をうかがいながら生存のための戦いを続けていた。

 

また、あの戦場を奇跡的に生きぬいた県民も、米軍の収容所や野戦病院に収容され、そこで怪我や病気や飢えと直面し、多くの人々が命を落とした。

 

そしてさらには、こころに刻まれた沖縄戦の壮絶な戦いをしいられているおびただしい人たちがいた。

 

米軍の記録者たちは、沖縄戦の戦闘疲労症 (combat fatigue) で野戦病院に収容された米兵たちのすがたもいくつか記録している。

 

5月12日から18日にかけてのシュガーローフの戦いだけで、米軍は2,662人の戦死傷者、また1,289人の戦闘疲労症患者を出した、と記録され、

 

後には、戦闘ストレス反応 (CSR) とよばれ、また PTSD とよばれる、強い反応を患うおびただしい兵士たち。

 

彼らは第82野戦病院に送られ、米軍は神経精神科センターをもうけ、研究者が治療 (兼研究) にあたっていたが、

その治療は困難を極めた。

 

現在、ロクな知識もないまま日本軍のシュガーローフの戦いを美化し、日本軍の勝利としてネットに投降するミリオタがあとをたたないが、

 

兵士のいのちを屍の砦にするような非常識な戦闘を展開した日本軍は、十四歳の少年兵らを通信隊や切り込み隊につかい、遺体の回収はおろか、負傷兵をすべて置き去りにして南下。ましてや戦闘神経症など埒外だった。

 

それがほんとうに日本軍の誇らしい戦闘だったかどうか、よーく考えてみろと言いたい。

 

子どもとしてあの戦争を戦った県民の多くが、戦争が終わっても長く苦しんだ。

 

7月16日まで戦闘を続けた第2護郷隊の
ある16歳の少年は、

 

戦争が終わって数年し、

 

「戦のことみんな思い起こしてしまってですね。戦争恐怖症みたいな精神異常者になって、独房にぶち込まれました、あんまり暴れすぎるちゅうことで」と語っている。
 

battle-of-okinawa.hatenablog.com

 

独房にぶちこまれることはあっても、誰にも何も相談できず、ただ一人で壮絶な心の戦いを戦うしかなかったのだ。

 

1945年 7月23日 『片手に手榴弾、片手に白い布片』

neverforget1945.hatenablog.com

 

 

沖縄戦参戦米兵と戦争神経症